2007年5月4日金曜日

がんエッセイ1 「浄心寺境内」

チャイムが鳴ったので出てみると、玄関に男の人が立っていた。宗教の勧誘かと一瞬身構えた。あのぅ、と出されたパンフレットは癌保険だった。「癌と告知された時点でまとまった多額の保険金が出るのですが……」目をしょぼしょぼさせて、断わられやすいようなタイプを丸まると私に見せて、彼は小声で言った。子宮筋腫はあったものの他にどこも悪くなかった私は「お使いに出るから」と当然のように断った。彼はあっさり「そうですか」と引き下がった。

スーパーの帰りに浄心寺の脇を通ると、境内の石段に腰掛けてうつむいている彼の姿があった。契約がひとつも取れないようなわびしい姿に見えた。私は無意識に彼に近づいていた。「もう一度うちに来て詳しい説明を……」私の口から言葉が勝手に走り出ていた。
その後の展開は、小説よりも奇なりになった。自分から招いて保険契約をした半年後に、私はがんになったのだ。子宮筋腫とばかり思っていたものが実は癌性の腫瘍で、開腹手術後の精密検査の結果『悪性リンパ腫』と診断された。抗がん剤治療のために病院も二つ替わった。
保険契約後のすぐの癌発見は、告知義務違反にあたるのではないかと社内で私のケースが問題になったそうだが、彼はずいぶんと頑張ってくれたらしい。仕事とはいえ入院中の私に代わって関係書類を調えに飛び回ってもくれた。結果、多額の治療費が無事に下りて私は安心して治療に専念できた。

あれから10年。私は癌と共生できて、彼とはお酒の飲める友人関係になった。わびしそうに見えた彼は、実は控えめな聞き上手の成績優秀なセールスマンであった。彼は浄心寺の境内で、わびしくひ弱そうに石段に座っていたことなどない、と今でも笑って断言する。
浄心寺の境内を通るとき、私は時々思う。あの時、ひ弱に感じたのは、病気を持っていた私の体が出したシグナルだったかもしれない、と。

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