がんエッセイ2 「座右の銘」
欲張りな話だけれど、座右の銘が二つある。一つはワット隆子さんの詩の中の一節から頂戴した『失敗は人を決めない。失敗の後が人を決める』。もう一つは亡き父の口癖『逃げれば追ってくる、向かえば乗り越えられる』である。
この座右の銘には、しかし二つとも欠点がある。一つ目は、失敗した後にもしっかり生きていくことを重点に置いているために、失敗を反省する箇所がない。二つ目は、自分で自分を奮い立たせるような強い意思無くしては逆風に向かっていけないので、必然的に鼻息の荒さを必要とする。こんなわけでこの二つの座右の銘を持つ私は、反省を滅多にしない、鼻息の荒いかわいくもない女に出来上がってしまった。
★
悪性リンパ腫というがん体験をして今年で10年目になる。がんを告知されたあとは、色彩のない世界のどん底に落ちた。どん底から立ち直るには大変な七転八倒であったが、それでも父からもらった座右の銘『逃げれば追ってくる、向かっていけば乗り越えられる』を心にして、『がんは私を決めない。がんの後が私を決める』という呪文を唱えつつ、この10年、なんとか生きてこられた。
昨年、がん体験以後の心模様をまとめて全国出版した。出版後、読者から相談が入るようになった。これはある程度予期していたことであったから、出版社にも、病気に関する真剣な問い合わせがあれば自宅の電話番号を伝えてください、と申し出てあった。出版をした著者責任として、できる限りの御相談には乗りたいと思ってきた。真摯な気持ちであった。
★
ある日、外出先から帰宅して家の近くまで来たら、私の前を歩いている男性が下げている黒い鞄が目に入った。見覚えのある本が差し込んであった。私の本だった。その男の人は近所の表札を確かめながら歩いていた。出版社からの連絡はなかったが読者が私を訪ねてきたのかもしれなかった。でももしそうでなかったら格好が悪いので私はその男の人の後ろを何気なく歩いて家の前まで来た。男の人が表札を見た。私も仕方なく立ち止まった。男の人が振り返って、アッ柚原さんですね、と言った。新聞で拝見していましたので、と言われた。続けて、御相談があります、と言われたので私は近所の喫茶店に御案内してお話をうかがうことになった。
その人はとても端正な面立ちで、目はまっすぐに私に向かっていた。姿勢もネクタイの趣味も良かった。「父親が白血病です。息子としてどのように接していったらよいのか見当がつかなくて・・・」彼は苦しそうに言った。私はどのような病状かを尋ねた。そしてお父さんが一番何を大切にして療養していらっしゃるのかも尋ねた。何度か会話をやり取りしているうちに、白血病に対する知識がちぐはぐであることを感じた。もう少し深く尋ねようとしたら、「実は父はもう治ったのです。あるもので治ったのです。ですから父が治った実証があるこの水を患者会の皆様に無料で差し上げて、父が治った喜びを他の患者の皆様と分け合いたいのです。患者会のルポを書かれたあかりさんの本を見て、ここに行けば皆さんに差し上げられるのでは、と尋ねてきました」。
彼はかばんの中からオロナミンCのようなビンを出した。『黄金××水』と書いてあった。「買っていらっしたんですか?おいくらでしたの?」「1万2千円でした」「患者さんに差し上げるとなると大変な金額になりますね。ボランティア精神ですか? でも患者会は個々の会員さんのプライバシーが流出しないようにきちんと管理していますから、何か物を売るとかでは簡単には近づけませんよ」真正面から私を外さずにいる彼のきれいな目を見て、惜しいなぁと内心で思いながら、でもピシャリと釘をさした。
代替医療の会社を興こすのでアドバイザーになってほしいとか、何とかの石を販売したいので一筆書いてほしいとか、出版以後は眉唾の話も多く飛び込んでくるが、いづれも無視をしている。しかし尋ねてこられたら逃げようがない。
★
お父さんが白血病、どうしていいか分からない、白金××水、ボランティア精神、端正な面立ちのきれいな目、・・・大まかは嘘だろうけど、どれか一つは本当だったかもしれないかなと少し心が揺れる。
座右の銘はなんですか?と彼の生き方を聴いてみればよかったかとも思う。そうはいっても『七転び八起きです』なんて言われたら、私の座右の銘では太刀打ちできない。
この座右の銘には、しかし二つとも欠点がある。一つ目は、失敗した後にもしっかり生きていくことを重点に置いているために、失敗を反省する箇所がない。二つ目は、自分で自分を奮い立たせるような強い意思無くしては逆風に向かっていけないので、必然的に鼻息の荒さを必要とする。こんなわけでこの二つの座右の銘を持つ私は、反省を滅多にしない、鼻息の荒いかわいくもない女に出来上がってしまった。
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悪性リンパ腫というがん体験をして今年で10年目になる。がんを告知されたあとは、色彩のない世界のどん底に落ちた。どん底から立ち直るには大変な七転八倒であったが、それでも父からもらった座右の銘『逃げれば追ってくる、向かっていけば乗り越えられる』を心にして、『がんは私を決めない。がんの後が私を決める』という呪文を唱えつつ、この10年、なんとか生きてこられた。
昨年、がん体験以後の心模様をまとめて全国出版した。出版後、読者から相談が入るようになった。これはある程度予期していたことであったから、出版社にも、病気に関する真剣な問い合わせがあれば自宅の電話番号を伝えてください、と申し出てあった。出版をした著者責任として、できる限りの御相談には乗りたいと思ってきた。真摯な気持ちであった。
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ある日、外出先から帰宅して家の近くまで来たら、私の前を歩いている男性が下げている黒い鞄が目に入った。見覚えのある本が差し込んであった。私の本だった。その男の人は近所の表札を確かめながら歩いていた。出版社からの連絡はなかったが読者が私を訪ねてきたのかもしれなかった。でももしそうでなかったら格好が悪いので私はその男の人の後ろを何気なく歩いて家の前まで来た。男の人が表札を見た。私も仕方なく立ち止まった。男の人が振り返って、アッ柚原さんですね、と言った。新聞で拝見していましたので、と言われた。続けて、御相談があります、と言われたので私は近所の喫茶店に御案内してお話をうかがうことになった。
その人はとても端正な面立ちで、目はまっすぐに私に向かっていた。姿勢もネクタイの趣味も良かった。「父親が白血病です。息子としてどのように接していったらよいのか見当がつかなくて・・・」彼は苦しそうに言った。私はどのような病状かを尋ねた。そしてお父さんが一番何を大切にして療養していらっしゃるのかも尋ねた。何度か会話をやり取りしているうちに、白血病に対する知識がちぐはぐであることを感じた。もう少し深く尋ねようとしたら、「実は父はもう治ったのです。あるもので治ったのです。ですから父が治った実証があるこの水を患者会の皆様に無料で差し上げて、父が治った喜びを他の患者の皆様と分け合いたいのです。患者会のルポを書かれたあかりさんの本を見て、ここに行けば皆さんに差し上げられるのでは、と尋ねてきました」。
彼はかばんの中からオロナミンCのようなビンを出した。『黄金××水』と書いてあった。「買っていらっしたんですか?おいくらでしたの?」「1万2千円でした」「患者さんに差し上げるとなると大変な金額になりますね。ボランティア精神ですか? でも患者会は個々の会員さんのプライバシーが流出しないようにきちんと管理していますから、何か物を売るとかでは簡単には近づけませんよ」真正面から私を外さずにいる彼のきれいな目を見て、惜しいなぁと内心で思いながら、でもピシャリと釘をさした。
代替医療の会社を興こすのでアドバイザーになってほしいとか、何とかの石を販売したいので一筆書いてほしいとか、出版以後は眉唾の話も多く飛び込んでくるが、いづれも無視をしている。しかし尋ねてこられたら逃げようがない。
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お父さんが白血病、どうしていいか分からない、白金××水、ボランティア精神、端正な面立ちのきれいな目、・・・大まかは嘘だろうけど、どれか一つは本当だったかもしれないかなと少し心が揺れる。
座右の銘はなんですか?と彼の生き方を聴いてみればよかったかとも思う。そうはいっても『七転び八起きです』なんて言われたら、私の座右の銘では太刀打ちできない。
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