がんエッセイ3 「不平等だけれど」
『幸』
雪は?天国の?あまりにも?幸福すぎるのに?退屈して?世の中へ? フワフワと?消えに降りてくるのだとさ?フワフワと? フワフワと?雪はバカだなあ
矢沢 宰 詩集『光る砂漠』より
(童心社・1969年・周郷 博 編)
★
日の光が明るくなって、いくらか春めいてきた東京地方だけれども、今年の冬は例年より寒く、そして雪の印象がある。
昨年の12月9日に降った雪は都心で三センチの積雪となり、12月の降雪の記録としては11年ぶりであったという。その日、私は友人とランチの約束をしていたから、重ね着をした上にさらにダウンコートを着て、両国の第一ホテルに向かった。
この悪天候に人出もまばらで、でも、そのおかげでゆったりと食事をすることができた。
地上200メートルのホテル最上階から見ると、雪はたくさんの仲間と一緒に、左右に揺らいだり、少しの風に上昇したりまた戻ったり、楽しそうに乱舞をしながら地上に降りてきていた。遠くには新宿の高層ビル群が、灰色の薄いシルエットを見せていた。眼下に流れる隅田川に船の姿は無く、川に寄り添うように走っている高速道路では、観光バスが綿菓子のような雪を載せて、何台か連なって行くのが見えた。国技館の屋根も両国の駅舎も丸く、安田庭園の松も雪釣りの形をとどめながら丸くあって、見ている私の気持ちまでがまろやかになっていくようだった。
★
あの日も、朝から雪が降っていた。
私の隣のベッドの人は泣きやんだのか布団をかぶって硬い背中を見せていた。婦人科の病室は、子宮筋腫摘出後の人、山のようなおなかを突き出した妊婦さん、出産後の若いお母さん、そして、泣き出してしまった彼女。それに開腹手術前の私との計六名で、今思えば、産む性を持つ女たちの全てのサンプルを詰め合わせたような患者構成になっていた。雪の降ったその日は日曜日で、見舞客の出入りも多く、特に赤ちゃんを産んだ人のところには人が多く寄り集まって、祝福の言葉が飛び交っていた。
子宮筋腫を摘出した60歳前後の人は、ベッドで新聞を読みながら「ああ、ゆっくりできるのもあと少しか」とつぶやいていた。私はがんの疑いがあって不安を抱えていたから、単なる子宮筋腫の彼女の呟きを、心の中で羨ましく思っていた。
「新聞の音がバサバサうるさいです」、とその女の人が言った。それが諍いの始まりだった。30歳半ばかと思えるその人は、入院したときから硬い表情で、入院の理由は見た目には分からなかった。
「新聞くらい読んだっていいでしょ。大きな手術が終わってほっとしているんだから」と子宮筋腫の術後の人は言い返した。
「ここは病室なんだから、皆さん静かにしてください。おめでとうおめでとうって、もうやめてください。子どもが欲しくってもできない人の気持ちにもなってください」。そう言うと彼女は布団に伏して泣きだしてしまった。
子宮筋腫の人は、「あんた、何を自分勝手なことを言ってんの。人にはそれぞれの幸せや不幸の時期があって、金太郎飴切ったみたいに同じ顔で、せぇ~のって暮らしていかれるわけないじゃないのよ。あんたが不幸だっていうなら、それはあんたの問題でしょ。私だって、辛い手術が終わったところで、喜んだ気持ちになったっていいじゃない。ずっと働いてきて、60になってやっと病院のベッドで骨休めのように休んでいるんだよ。それをあんたに咎められなきゃならない筋合いはない。……何があったか知らないけれど、あんただってきっとこの先、幸せを感じられる日がやって来るよ」。
自分の娘を諭すように、新聞をたたんでその人は廊下に出て行った。
「今夜は雪が積もるかもしれませんね」と産み月の人が言った。
静かになった病室。音もなく降っている雪。蛍光灯が白々としていた。
★
人は無から生まれて、やがて死んで骨になる。その生き死にだけは誰にでも平等であるが、平等なのはそれだけで、人生を渡って行く中身や長さは全くの不平等である。そして多分、喜びのときは短く、悲しみのときは長い。顔に出さないだけである。
人はそれぞれの人生の長さの中で、幸せの時期がそれぞれにずれているからこそ、他人の悩みを受け止めたり、はげまして支えたりすることができる。だから自分が辛い時は、辛くない人に訴えて、その胸を借りて素直に泣けばいい。そして泣かせてもらったことを覚えていて、そのことを誰かに返していけばいい。
不妊に悩んで泣き伏した彼女と、産み終えた感動が交錯してしまうこんな混成病室を作った事は、病院側の落ち度であったかもしれないが、時には、生きているだけで丸儲けだと思うことも必要だと思う。
純粋な詩を500篇以上も残した矢沢宰君は、そのほとんどを病床で過ごして21歳で亡くなった。
今年の冬は、早逝した矢沢宰君を想うことが多い。
雪は?天国の?あまりにも?幸福すぎるのに?退屈して?世の中へ? フワフワと?消えに降りてくるのだとさ?フワフワと? フワフワと?雪はバカだなあ
矢沢 宰 詩集『光る砂漠』より
(童心社・1969年・周郷 博 編)
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日の光が明るくなって、いくらか春めいてきた東京地方だけれども、今年の冬は例年より寒く、そして雪の印象がある。
昨年の12月9日に降った雪は都心で三センチの積雪となり、12月の降雪の記録としては11年ぶりであったという。その日、私は友人とランチの約束をしていたから、重ね着をした上にさらにダウンコートを着て、両国の第一ホテルに向かった。
この悪天候に人出もまばらで、でも、そのおかげでゆったりと食事をすることができた。
地上200メートルのホテル最上階から見ると、雪はたくさんの仲間と一緒に、左右に揺らいだり、少しの風に上昇したりまた戻ったり、楽しそうに乱舞をしながら地上に降りてきていた。遠くには新宿の高層ビル群が、灰色の薄いシルエットを見せていた。眼下に流れる隅田川に船の姿は無く、川に寄り添うように走っている高速道路では、観光バスが綿菓子のような雪を載せて、何台か連なって行くのが見えた。国技館の屋根も両国の駅舎も丸く、安田庭園の松も雪釣りの形をとどめながら丸くあって、見ている私の気持ちまでがまろやかになっていくようだった。
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あの日も、朝から雪が降っていた。
私の隣のベッドの人は泣きやんだのか布団をかぶって硬い背中を見せていた。婦人科の病室は、子宮筋腫摘出後の人、山のようなおなかを突き出した妊婦さん、出産後の若いお母さん、そして、泣き出してしまった彼女。それに開腹手術前の私との計六名で、今思えば、産む性を持つ女たちの全てのサンプルを詰め合わせたような患者構成になっていた。雪の降ったその日は日曜日で、見舞客の出入りも多く、特に赤ちゃんを産んだ人のところには人が多く寄り集まって、祝福の言葉が飛び交っていた。
子宮筋腫を摘出した60歳前後の人は、ベッドで新聞を読みながら「ああ、ゆっくりできるのもあと少しか」とつぶやいていた。私はがんの疑いがあって不安を抱えていたから、単なる子宮筋腫の彼女の呟きを、心の中で羨ましく思っていた。
「新聞の音がバサバサうるさいです」、とその女の人が言った。それが諍いの始まりだった。30歳半ばかと思えるその人は、入院したときから硬い表情で、入院の理由は見た目には分からなかった。
「新聞くらい読んだっていいでしょ。大きな手術が終わってほっとしているんだから」と子宮筋腫の術後の人は言い返した。
「ここは病室なんだから、皆さん静かにしてください。おめでとうおめでとうって、もうやめてください。子どもが欲しくってもできない人の気持ちにもなってください」。そう言うと彼女は布団に伏して泣きだしてしまった。
子宮筋腫の人は、「あんた、何を自分勝手なことを言ってんの。人にはそれぞれの幸せや不幸の時期があって、金太郎飴切ったみたいに同じ顔で、せぇ~のって暮らしていかれるわけないじゃないのよ。あんたが不幸だっていうなら、それはあんたの問題でしょ。私だって、辛い手術が終わったところで、喜んだ気持ちになったっていいじゃない。ずっと働いてきて、60になってやっと病院のベッドで骨休めのように休んでいるんだよ。それをあんたに咎められなきゃならない筋合いはない。……何があったか知らないけれど、あんただってきっとこの先、幸せを感じられる日がやって来るよ」。
自分の娘を諭すように、新聞をたたんでその人は廊下に出て行った。
「今夜は雪が積もるかもしれませんね」と産み月の人が言った。
静かになった病室。音もなく降っている雪。蛍光灯が白々としていた。
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人は無から生まれて、やがて死んで骨になる。その生き死にだけは誰にでも平等であるが、平等なのはそれだけで、人生を渡って行く中身や長さは全くの不平等である。そして多分、喜びのときは短く、悲しみのときは長い。顔に出さないだけである。
人はそれぞれの人生の長さの中で、幸せの時期がそれぞれにずれているからこそ、他人の悩みを受け止めたり、はげまして支えたりすることができる。だから自分が辛い時は、辛くない人に訴えて、その胸を借りて素直に泣けばいい。そして泣かせてもらったことを覚えていて、そのことを誰かに返していけばいい。
不妊に悩んで泣き伏した彼女と、産み終えた感動が交錯してしまうこんな混成病室を作った事は、病院側の落ち度であったかもしれないが、時には、生きているだけで丸儲けだと思うことも必要だと思う。
純粋な詩を500篇以上も残した矢沢宰君は、そのほとんどを病床で過ごして21歳で亡くなった。
今年の冬は、早逝した矢沢宰君を想うことが多い。
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