2007年5月4日金曜日

がんエッセイ4 「さくらの樹の下で」

色は匂えど散りぬるを/わが世誰ぞ常ならむ/有為の奥山今日越えて/浅き夢見し/酔いもせず

50音順というと今では『あいうえお』が主流になっているが、ほんの少し前の日本には『いろは』で始まる順番があった。
戦後の国語改革でゑ(え)や、ゐ(い)が使えなくなってから『いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす(ん)」という平仮名での表し方を目にする機会はなくなったが、全ての音を重複することなく詠み込んだこの歌は、かなを練習する手習いにとどまらず深い意味あいがある。

日の光がやや強くなって、日足も心持ち延びてくると、南の方からさくら便りが届き始める。開花宣言から三分咲き、5分咲きとニュースが流れてくるが、満開の頃には決まって春雷を伴うような春の嵐が強風や雨をもたらして、さくらを散り急がせる。あっという間のさくらの命に、過ぎ行くものへの愛おしさを想いながら、人々はせかされるようにさくらの樹の下に立つことになる。

髪の毛が全部抜けて体重が50kgを切っていた。スポーツでしっかり鍛えられていた太ももの肉は落ち、化学療法の副作用で爪には縦皺がはいっていた。毎夜、消灯後の病室のベッドで、しびれの残る右手と左手を目の前にかざして、幸せの数と不幸の数を指折っていた。幸せの数がいつでも足りなかった。私は幸せと思える出来事が多くなるまで、どんなちいさなことでも探し出して数えた。もし、死んでいくことが避けられないのであれば、せめて幸せな人生であったと思いたかった。
土曜日の午後のこと。病棟には外泊許可が出なかった患者が残っていた。それはまた、病気の重さをも意味していたから、皆それぞれのベッドで静かに休んでいた。7階の窓から見える町はすっかり春めいて、そこここにさくらの淡い花霞が見えていたが、外のさくらと内の病、ガラス窓一枚だけではない大きな隔たりに、誰もがさくらを忘れたようにしていた。
廊下の向こうから、看護婦さんたちが病室を一つ一つ渡ってくる気配がした。「お花見に行きますよ!」という声も聞こえてきた。
私は治療後であったら、白血球数が下がっていて、感染に気をつけねばならない状態であった。
「暖かい午後だから行きましょ!ちょっとだから、厚着してね、さっと行って、さっと帰ってきましょう。お花見!お花見!」
ナースセンターや病室が華やいだ雰囲気になった。
患者さんを寝かせたままの大きなベッドが数台、病室から出てきた。点滴を持ってガウンを着て、ひざ掛けを幾重にもまき付けた患者さんを乗せた車椅子も、数台並んだ。看護婦さんがそれぞれを押すために後ろについていた。感染を防ぐために大きなマスクをして目だけを出して、看護婦さんに支えられて……、そんな一団が病院の中庭にあるさくらの樹の下に集まった。
さくらの樹はとても大きかった。
花は、白にほんのりと淡く紅を浴びせたような薄桃色で、枝という枝を埋め尽くして揺れていた。重なり合う花びらの奥に見える真っ青な空。春爛漫と咲き誇るさくら。それを必死で見上げる患者たち。見せてあげたいさくら。見ておかなければならないさくら。もしかしたら最後のさくら。
私が死んでも、このさくらはまた来年、きっと何事もなかったように咲くんだろうな……そう思ったとたん、言い知れない寂しさに襲われた。突然の病気の発症。辛い治療。命に限りがあるとは思いもしなかったこれまでの日々。命に限りがあることを突きつけられた病室の、今の、日々。できることなら逃げ出したい。死ぬのは怖い。私はさくらの樹の下で看護婦さんの腕につかまって泣いていた。

春は夫の祥月命日でもある。
私はひざの上にまだ温かい骨壷を抱いていた。虚脱感でいっぱいだった。死ねたら楽になるのだろうか、それだけをずっと思っていた。葬儀場から出てきた車のフロントガラスに、さくらの花がまとわりつくように散り続けていた。夫の死とがん。大変なことをくぐってきた感はあるが、過ぎてきた日々を振り返れば、この二つは私の人生にとって必要なことであったのだ、とこの頃では思える。

『色は匂えど散りぬるを・・・』の『色』は、仏教でいう『色(しき)……形あるもの』のことで、形あるものはいづれこわれるのであるから、物や形に執着せずに生きよ、という意味が含まれている。
がん以後の拾った命。いずれにしても散りぬる命、きわめて淡々と生きようと思ってはいるのだが、修行が足りずに、まだ喜怒哀楽そのままの日常にいる。毎年、さくらの頃に定期健診があって病院の門をくぐる。無事に二重丸をもらえたら、私の一年が始まる。

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