2007年5月4日金曜日

がんエッセイ6 「ヤクルト」

夏になるとやたら多くなる怪奇現象。トンネルの中、ほらあそこに霊魂が、と指差す人。示された先にぼんやりとした白い影……。

CT室から返されてきた肺の映像の中に、直径2センチほどの白抜きの影があった。「再発ですか」医師の言葉を待てずに私は聞いた。「の可能性もあるね」医師は再発という言葉の重さを患者に感じさせまいとしてか、自身ではその言葉を使わずに「の可能性」と答えたが、その短い言葉で充分の衝撃がきた。
がん患者としての私は、寛解の目途である5年目を、ちょうど通り過ぎていこうとしていた辺りで、もしかしたら何事もなく普通に生きて行けるかもしれないと思っている頃だった。
前触れもなくやってきた再発の兆候、心臓をいきなり冷たい手でつかまれたような感覚。足先から悪寒が上がってきた。
「先生、これは二週間前の撮影ですよね。もう一度CTを撮ってきます」再発は絶対にいやだった。祈るような気持ちで撮ってきたCTには先回と全く同じ形の影が映っていた。
「検査というのは気管支鏡を飲み込むのですか?」患者としての知識もだいぶ増えていた私は、その反面多くのマイナーな部分も学習済みで、呼吸の通り道である気道を内視鏡が通っていく息苦しさを想像すると胸がふさがった。医師は「影の形が少し違うようなのでもしかしたらなんでもないが、そうかと言って手遅れになるようなことになっても困るので、内視鏡検査だけはしたほうがいいと思う。どうしますか?」と言う。
患者には決定権もあり、選択肢もあるのだから返事をしなさい、と言われても、それに応えられるだけの医学知識はなく、しかも追い詰められたような、切羽詰った“再発”の不安だけが気持ちの中を駆け巡った。検査をする手続きをした。
夜中に何度も眼が覚めた。狭い気道を大きな気管支鏡が通り抜けようとする。もがきながら飛び起きる。眠れぬまま、影があると思われる場所に私はじっと手を当てていた。
再発をすればがん以後に組み立ててきた生活がまたもや崩れる。肺切除をするとどんな生活になるのか検討もつかず不安であった。この影が消えればいい、私は検査の日まで暇さえあれば祈るように胸に手を当てていた。
勇気を持ってやった気管支鏡検査では肺の影に到達することができず、入院をして背中から穿刺をして直接その影の中身を採ってくる、いわゆる生検をすることになった。
検査のためとは言え、再びがん病棟に戻った私は気落ちした中にいた。私は軽い麻酔を打ったまCT室に入った。CTの機械がドォーンドォーンと唸っている中をうつ伏せで何度か行きつ戻りつした。どの医師が背中に針を刺すのだろうか、私はうつ伏せのまま目をつむっていた。すると機械の音が突然に止んだ。小さなドアが開けられて医師が出てきた。「影が消えています。病室に帰ってください」
狐につままれたような気持ちだった。

『がん患者が共に生きるガイド』を出版させてもらった2001年の春、全国からたくさんのお手紙を戴いた。その中のお一人と手紙のやり取りをさせてもらっているが、その方も不思議体験をなさっている。
お話によると胆石の激痛にさらされた後、癒しの音楽を流しながら谷川をさらさらと水が流れるイメージを頭に描き、胆石のあるところにいつも手を置いていた……と。胆石はやがて消えたそうである。
私の義兄も不思議な体験をしている。義兄は膀胱がんだった。かなりしつこく再発するので、半年に一度くらいの入院をして尿道の壁にできた腫瘍をそぎ落とす治療をしていた。罹患して10年目、「この治療がもう最後です。尿道の壁がだいぶ薄くなっていますのでもう持ちません。次に再発をしたら人工膀胱を考えています」、と医師から告げられた。病室に戻って、何を考える気にもなれずに義兄はテレビをつけた。画像はヤクルト菌の話だった。この菌がもしかしたら膀胱がんに効く可能性があるかもしれないという内容だった。
それから義兄はヤクルトを朝晩のみ続けた。半年後の定期健診では、あれほどしつっこく尿道の壁に出ていた腫瘍は見当たらず、義兄は人工膀胱になるのを免れたばかりか、完治地点にジャンプする奇跡のような結末を迎えたのだった。何がどうなったのか、胆石と膀胱がんと私の肺の陰。摩訶不思議な出来事。

不思議事を科学で証明できる知恵が現時点で無い場合は不可思議事として存在してしまうが、その解明に科学が追いついたあかつきには証明されることもあるわけで、夏の夜の怪奇現象はともかくとして、不思議事を一笑に付してしまうことはできない。余命何ヶ月といわれても生き返ってきた人は沢山いるし、自然治癒力や免疫力の向上も方法論において“かもしれない”部分がまだあるから、裏返せば何が幸いして生還してくるかを“賭ける”手がまだ多く残されていると言える。
何があってもとにかく生きていくことが先決。生きてさえいればどうにかなる。それでも身に余る悲しさに出会ったら遠慮なく周りを巻きこんだらいい、と私はがんの体験からそう思っている。周りの人は、まきこまれてその人を支えてあげよう。そうしてこそお互いに「人」を名乗っていることになるノデハナカロウカ。

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