2007年11月14日水曜日

父エッセイ 「無花果」

「無花果」
蝉取りに使った網の柄の先に針金を二股にして短く差し、それで熟した実の生り口をツンと突くと、網の中でボトリと音がして柄がしなった。その網を父が私のほうに向けて差し出すので、私はその中にある柔らかな無花果のかたまりを籠に移した。こげ茶色に薄紫の線が入った頭を少しはじけさせて、無花果はいたずら坊主のように籠の中に並んでいった。
5つ6つ採ると父と私は縁側に座ってそれを食べた。縁側からまだ地面に着かない私の小さな足と、畑仕事から帰ったばかりの土まるけの筋肉質な父の足が並んだ。「口を大きくあけて食べんと、汁でかぶれるぞ」と父の張りのある声。澄んだ大気の匂い。断片的であるだけに父との鮮明な想い出。
先日、東陽町のスーパーで置き引きにあった。初めての経験だった。私が選んで買った品々を家に持ち帰って夕食にする人は、どんな人なんだろう。その人には子どももいて、子どもも、お母さん美味しいねと言って食べるのだろうか……。なんとも嫌な気分になりながら外に出ると、スーパーの向こう側で、おばさん軍団が7,8個の買い物袋を地面に置いて笑いあっている姿が目に入った。何気なしに近寄ってみると、私の買った品々とまったく同じ内容の袋があった。偶然か。しかし私なりの詰め込み方までも偶然か。そんなことはありえない。私はスーパーに戻り店員を呼んで、置き引きにあった旨を告げた。私は表にいるおばさん軍団を指差した。店員は外の方と私を交互に見ながら「申し訳ないけれど、最近置き引きが多いです。現行犯として押さえなければ、自分のだと主張されて袋を閉じられてしまったり、レシートは捨てました、と言われれば、その場でそれ以上は無理なんです」と言った。
おばさん軍団が移動した。外に出てみるとスーパーの買い物袋が一つ取り残されていた。袋の中で、私の買った無花果が乱暴に扱われて傾いてつぶれていた。
想い出だってお金で買う都会。どこかざらざらした都会は心底好きになれない。無花果の木のあった田舎に帰ってみたいと、時々思う。

2007年9月13日木曜日

父エッセイ 14 「枇杷」

「枇杷」



枇杷の木を屋敷内に植えると縁起が悪いという語り伝えがある。
枇杷の木はお寺に多い。お寺は死に繋がるところで、死を『忌む』(不吉なこと、汚らわしいこととして避け、嫌う)ととらえる日本的宗教観から、枇杷の木のあるところは不吉という図式らしい。
しかし、昔のお寺は診療所の役目をしていたこともあって、寺に植えた枇杷の葉は煎じて薬用に使われていたものであるらしい。人の役に立つ枇杷……私はこちらの説を信用している。その枇杷の実が深川の寺町にちらほらと見られる季節になった。

昭和33年、私は9歳だった。愛知県で農業を営んでいる両親の長女として、畑の手伝いをしたり、遊んだり、そろそろ自分というものが分かりかけて人生の出発点に立っているような頃だった。
私は一歳前の妹をいつも背負っていた。弟妹の面倒を見るのは当時当たり前のことで、背負ったままでかくれんぼや追いかけっこをして遊んだ。時には赤ん坊と一緒に乳母車に乗り込んで坂道を勢いよくかけ下り、挙句の果てに転覆。赤ん坊ともどもできたタンコブの言い訳に、知恵を絞ったりもした。
家の近くに安楽寺という寺があり、そこに枇杷の大木があった。登りやすい木だった。葉の間には大粒でつややかな実が見え隠れしていた。樹の下で少し思案したが、一緒に遊んでいた友達に押し上げてもらって、妹を背負ったままで樹に登った。枝につかまって動ける範囲の枇杷をいくつかちぎって下に投げた。しばらくすると渡り廊下にヒタヒタと音がして住職さんが現れた。「危ないから降りなさい。欲しかったらあとであげるから」。
記憶はそこでとぎれ、後日、仏間の隣の暗い部屋に隠れている自分につながる。毎月七日は祖父の月命日で住職さんが経を上げに来ていた。普段は食べられない白米の炊き込みご飯が、お参りを終えた住職さんの前で湯気を立てていた。しかし私は『枇杷の一件』が、家族に告げられることを思うと暗い部屋で胸がふさがりそうだった。 
住職さんが帰った後に叱られた記憶はない。それどころか、お土産にと持ってきてくれた枇杷が仏壇に上がっていて「『妹の面倒を見る良い子だ』と住職さんがほめていた」と祖母が笑顔で私に言った。

枇杷に出合うと、その向こうに白米ご飯が湯気を立て、咎められずにほっとしてご飯を食べている自分の幼い姿が見える。

2007年8月9日木曜日

「青屋」

いつも行っていた駅前の八百屋さんは品物もよくて値段も安くてよかったのだけれど、会計をしてくれるおじさんが私は苦手であった。そのおじさんは籠に入れた野菜を暗算しながら、袋に詰めていき「1650円」といつもぶっきらぼうに言った。詰められたものを受け取ろうとすると、手を出しているのに、すぐ脇の籠にわざとのようにいれる。へんくつなおじさんは世間にいっぱいいるから、こんな程度ならそうおたおたしないが、本当にいやだなと思ったの、計算を時々間違えることだった。ざっと計算して大体の金額よりもえらくかけ離れていたある日、ちょっと指摘した。おじさんは間違いを謝るわけでなく、「そうだね」と言ってかすかに笑った。感じが悪かった。
後日の買い物で「今日は領収書をください」と言ったら、「主婦になんで領収書がいるのか」とのたまいながら領収書を書き、もらおうと手を出している私の手をよけて台の上に置いた。このおじさんを大嫌いになった。    
このおじさんに<我が家庭型保育室は自営業の部類なので、離乳食を作るための野菜は経費なのです>と言おうとしたが空しくなってやめた。
スーパーの陳列棚で冷風を噴霧され続けている野菜たちよりも、日の光に照らされながら青は青に赤は赤にはっきりと色をつけている野菜たちが私は好きである。だから、次の八百屋さんを探す事になった。
下町にはトラックでやってくる八百屋さんがまだ残っている。近所にある大型マンションに来る八百屋さんと魚屋さんが面白いらしいとのうわさで行ってみた。面白かった。

14時過ぎにやってくる八百屋のトラックを近所のおばあさんやおじいさんが待っている。車がやってくると、そのおばあさんやおじいさんたちは、にわかにボランティアと化してトラックの荷台に群がる。腰の曲がっているおじいさんも張り切って野菜のダンボール箱を降ろしている。降ろした後に品並べも手伝う。早くも買いに来たお客さんたちに値段を口伝えで教えている。にわかボランティアのおばあさんおじいさんたちの生き生き感が伝わってくる。
計算は白い紙に品物の一つ一つの値段をマジックで書き、縦算で合計してくれる。単なる数字の紙切れだが、見やすく解かりやすく、もちろん笑顔と三言四言の雑談付きで、にぎやかしい。
計算の手伝いだけにやってくるおばあさんもいる。このおばあさんは八百屋の品物が出揃った頃にやってくる。行かねばならぬという小走りで、嬉しそうにやってくる。
そうこうしているうちに、魚屋がトラックでやってくる。人の波が少し移動する。刺身の盛り合わせ方が好みでない、烏賊に蛸はいらない。タイがいいからとなりのタイと盛り合わせてある鰯をどけて烏賊に組みかえるか、と勝手に客たちが盛り上がる。
八百屋も魚屋も売り切れ御免である。

ある日のこと遅い時間に行った。魚屋のウインドウにはうなぎの蒲焼とニシンの菜の花漬けだけがあった。ニシンの菜の花漬けを買った。魚屋のおじさんは裏扉の冷蔵室を開けて魚の半身をもってきた。「お姉さん、お姉さん、このスズキの刺身いらない?」って言う。おばさんの私に気を使ってお姉さんと言ってくれたのでココロが動いた。……でも今日は家族が食卓に揃わなくて半身の刺身は無理。それにスズキの刺身は少し苦手。それで、私は「スズキ嫌いだし……」と小さな声で言った。そしたら、おじさんが怒り出した。「あったまきたなぁ~!スズキを嫌いだってか。絶対に旨いから食べてみろ!これやるよ!もう最後のだからやる。だから食べろ」「えっ、いらない。嫌いだもん」「やるったら、絶対やる」
スズキをビニールの袋に入れて目の前に突き出した魚屋のおじさん。
「いくらぁ」「いらねぇよ」。目が笑っているから安心して貰った。
「刺身が嫌いなら、ムニエルにしな。塩コショウして、粉振って焼く。うまいから。スズキはうまいから」と魚屋は力説する。私もわがまま言ってみたくなって、そこに残っていたうなぎを指さして「おじさん、私、うなぎも嫌い」と言ったら、「うなぎはやらネェ!」と即座に言われた。

青物横丁、青物市場などの名称が今でも残っているように八百屋さんは、昔は「青屋」と呼ばれていたそうである。青は野菜類の青さからきている。<アオヤ>が<ヤオヤ>に変化をして「八百屋」という漢字が当てはめられた、と物の本にはある。青はあくまで売り手側であって、買い手側のお客を青くさせてはいけない。
おばあさんやおじいさんのボランティアがいる楽しいトラック八百屋。みんなで肩触れ合うようにウインドウを覗きこんで、てんでにわいわいがやがや言えるトラック魚屋。良い二つのお店にめぐり合うことができて私は誠にうれしい。半年以上たつが、嫌な思いは一度もしたことが無い。