父エッセイ11「茗荷」
夏の庭の隅に、生姜の葉を少し大振りにしたような形で群れている茗荷。お父さんのような大きな葉っぱと、それを支えるお母さんのような茎の、そして、その元から愛らしく出てくる子どもの茗荷。
♪:茗荷と大葉をみじん切りにして炊きたてご飯にのせて、しょうゆをかけて食す。♪:お酢を火にかけて沸騰する間際に砂糖を多めに入れて甘酢を作る。冷めたところに、縦割りにした人参とまるごとの新生姜と茗荷を漬け込む。魚料理の添え物になくてはならない一品になる。その他、薬味、てんぷら、ぬか漬け、もちろん吸い物の具にも良い。卵でとじるとさらに良い。
★
私が子どもの頃に住んでいたのは、濃尾平野の真ん中に位置する農村地帯だった。その戸数100軒あまり。私の家の脇は細い道で、村のはずれにある安楽寺に通じていた。寺には集会所となる別棟がついていて、そこでは夜になると、大人たちの寄り合いや子ども会の紙芝居やお月見などが催されていた。
今の都会の子どもの育ち方から考えると想像もつかないだろうが、漆黒の闇の夜でも、お寺の集会所に、当時は子どもたちだけで出かけていた。闇の中、ササゲの実から漂ってくる青い香り、ナス畑の葉が擦れ合うごわごわとした音、夜露を受けてかすかに湿った空気、それらを体中に感じながら、自分の足元だけを懐中電灯で照らして歩く。でこぼこの道、石ころが一つ一つ影をつけて足元を過ぎていく。お寺さんに上げて、と祖母に頼まれた三合ばかりのお米をしっかり持って、弟と手をつないでお寺の紙芝居に出かけた夜。闇の夜でもそれほど怖いと思わなかった子ども時代。
★
そんな中で、見るだけでとてもこわい女の人が村の中に一人いた。その人はオキチ様と呼ばれていた。まだ若い女性で、日がな一日何かをつぶやいていた。髪はパーマをかけている様子だったがぼさぼさとしていた。目はパッチリと大きく、口は赤い紅に彩られていた。いつも長いスカートをぞろりとはいていたが、スカートの裾は片手でつままれていた。
オキチ様と目を合わせてはいけないといわれていた。目を合わせるとどこまでも追いかけてくる、と。特に子どもを追いかける。山姥が一山も二山も一瞬で越えてくるような迫力を、そのオキチ様はもっていた。子どもたちはオキチ様の家の前を通るとき、息を吸い込んでから猛ダッシュをするのが常だった。
★
夕方、母親が木っ端(こっぱ)で風呂をたきつけていた。祖母は台所仕事をしていた。私は祖母に呼ばれて、裏の垣根の脇にある茗荷を採ってくるように言われた。人の顔が識別できるかできないかの、もうじき夜に入るその直前の夕闇。私は祖母が手渡してくれた小さなザルを持って、茗荷の葉が茂るところにしゃがみこんだ。茎の脇、土の中からわずかに顔を出している茗荷の子どもを一つ二つ抜いた。抜く感触が手に伝わる。土が少しはねる。隣の茎の根元を探る。
茗荷の葉がかすかに揺れた。何気なく葉と葉のすき間を見た。葉の向こうにぬれて光る獣のような黒い瞳と真っ赤な唇があった。葉のすき間から、私の方に手が伸びた。私は声を出せずに気絶した。
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茗荷は熱帯アジアを原産国とするショウガ科の食物で、春から夏に開花する。別名「鈍根草」。茗荷を食べると物忘れをすると言われる由来から来ているのか、この「鈍根草」の命名は汚名のようで少しかわいそうに思える。
釈迦の弟子の一人に、自分の名前さえ忘れてしまうという記憶力の悪い周利槃特(しゅりはんどく)という弟子がいた。釈迦が、せめて自分の名前は覚えているようにと「周利槃特」と名前を紙に書いて彼に背負わせた。周利槃特が亡くなった後、彼のお墓に生えてきた草を茗荷(名を背負う)と命名したそうである。この説話は、そのような鈍臭い人でも一心に修行すれば悟りは開ける、と続くそうであるから、物忘れの箇所のみが一人歩きをしていったことになる。
もう一つの命名説には、茗荷はショウガによく似ていて、その昔はショウガのことを男芽(オガ)と呼び、茗荷のことを女芽(メガ)と呼び分けたそうで、メガの言葉の変化がミョウガとなった、と物の本にはある。いづれにしても夏の胃弱を助けたり熱をさましたりする効用はあるので、夏には摂取しておきたい野菜である。
★
世にも怖いオキチ様というのは、その人の名前だとばかり思っていたが、村の大人たちが、気がふれた人のことを呼称したのだと後に解かった。オキチ様は添いたい人に添えなかったばかりか、堕胎も強要されて気がふれたのだ、と。だから子どもに対しても異常に執着するのだ、と。
気がふれるほどの恋焦がれ……そこまで激しくなくとも、微熱程度の恋ならば私にも多少の経験はある。てんぷらを揚げながら、菜ばしを使いながら、お風呂で髪を洗いながら、どんな時でもいかなる時でも、片時も、その人のことが頭から離れないことがあった。夢の中で寄り添えた日には、あまりにもの生々しさと、あまりにもの不現実さとに、夢見の喜びが深い悲しみに変わっていく、そんな朝もあった。微熱程度の恋でもこれである。
忘れなければいけないものを忘れられずに、忘れてはいけないことをあっさり忘れるような、厄介ともいえる回路を人はあわせ持つ。
茗荷の葉の向こう側。気絶寸前に見たオキチ様の双眸(そうぼう)は、年を経るごとに、私の中で深い悲しみの色に塗り替えられている。
♪:茗荷と大葉をみじん切りにして炊きたてご飯にのせて、しょうゆをかけて食す。♪:お酢を火にかけて沸騰する間際に砂糖を多めに入れて甘酢を作る。冷めたところに、縦割りにした人参とまるごとの新生姜と茗荷を漬け込む。魚料理の添え物になくてはならない一品になる。その他、薬味、てんぷら、ぬか漬け、もちろん吸い物の具にも良い。卵でとじるとさらに良い。
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私が子どもの頃に住んでいたのは、濃尾平野の真ん中に位置する農村地帯だった。その戸数100軒あまり。私の家の脇は細い道で、村のはずれにある安楽寺に通じていた。寺には集会所となる別棟がついていて、そこでは夜になると、大人たちの寄り合いや子ども会の紙芝居やお月見などが催されていた。
今の都会の子どもの育ち方から考えると想像もつかないだろうが、漆黒の闇の夜でも、お寺の集会所に、当時は子どもたちだけで出かけていた。闇の中、ササゲの実から漂ってくる青い香り、ナス畑の葉が擦れ合うごわごわとした音、夜露を受けてかすかに湿った空気、それらを体中に感じながら、自分の足元だけを懐中電灯で照らして歩く。でこぼこの道、石ころが一つ一つ影をつけて足元を過ぎていく。お寺さんに上げて、と祖母に頼まれた三合ばかりのお米をしっかり持って、弟と手をつないでお寺の紙芝居に出かけた夜。闇の夜でもそれほど怖いと思わなかった子ども時代。
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そんな中で、見るだけでとてもこわい女の人が村の中に一人いた。その人はオキチ様と呼ばれていた。まだ若い女性で、日がな一日何かをつぶやいていた。髪はパーマをかけている様子だったがぼさぼさとしていた。目はパッチリと大きく、口は赤い紅に彩られていた。いつも長いスカートをぞろりとはいていたが、スカートの裾は片手でつままれていた。
オキチ様と目を合わせてはいけないといわれていた。目を合わせるとどこまでも追いかけてくる、と。特に子どもを追いかける。山姥が一山も二山も一瞬で越えてくるような迫力を、そのオキチ様はもっていた。子どもたちはオキチ様の家の前を通るとき、息を吸い込んでから猛ダッシュをするのが常だった。
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夕方、母親が木っ端(こっぱ)で風呂をたきつけていた。祖母は台所仕事をしていた。私は祖母に呼ばれて、裏の垣根の脇にある茗荷を採ってくるように言われた。人の顔が識別できるかできないかの、もうじき夜に入るその直前の夕闇。私は祖母が手渡してくれた小さなザルを持って、茗荷の葉が茂るところにしゃがみこんだ。茎の脇、土の中からわずかに顔を出している茗荷の子どもを一つ二つ抜いた。抜く感触が手に伝わる。土が少しはねる。隣の茎の根元を探る。
茗荷の葉がかすかに揺れた。何気なく葉と葉のすき間を見た。葉の向こうにぬれて光る獣のような黒い瞳と真っ赤な唇があった。葉のすき間から、私の方に手が伸びた。私は声を出せずに気絶した。
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茗荷は熱帯アジアを原産国とするショウガ科の食物で、春から夏に開花する。別名「鈍根草」。茗荷を食べると物忘れをすると言われる由来から来ているのか、この「鈍根草」の命名は汚名のようで少しかわいそうに思える。
釈迦の弟子の一人に、自分の名前さえ忘れてしまうという記憶力の悪い周利槃特(しゅりはんどく)という弟子がいた。釈迦が、せめて自分の名前は覚えているようにと「周利槃特」と名前を紙に書いて彼に背負わせた。周利槃特が亡くなった後、彼のお墓に生えてきた草を茗荷(名を背負う)と命名したそうである。この説話は、そのような鈍臭い人でも一心に修行すれば悟りは開ける、と続くそうであるから、物忘れの箇所のみが一人歩きをしていったことになる。
もう一つの命名説には、茗荷はショウガによく似ていて、その昔はショウガのことを男芽(オガ)と呼び、茗荷のことを女芽(メガ)と呼び分けたそうで、メガの言葉の変化がミョウガとなった、と物の本にはある。いづれにしても夏の胃弱を助けたり熱をさましたりする効用はあるので、夏には摂取しておきたい野菜である。
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世にも怖いオキチ様というのは、その人の名前だとばかり思っていたが、村の大人たちが、気がふれた人のことを呼称したのだと後に解かった。オキチ様は添いたい人に添えなかったばかりか、堕胎も強要されて気がふれたのだ、と。だから子どもに対しても異常に執着するのだ、と。
気がふれるほどの恋焦がれ……そこまで激しくなくとも、微熱程度の恋ならば私にも多少の経験はある。てんぷらを揚げながら、菜ばしを使いながら、お風呂で髪を洗いながら、どんな時でもいかなる時でも、片時も、その人のことが頭から離れないことがあった。夢の中で寄り添えた日には、あまりにもの生々しさと、あまりにもの不現実さとに、夢見の喜びが深い悲しみに変わっていく、そんな朝もあった。微熱程度の恋でもこれである。
忘れなければいけないものを忘れられずに、忘れてはいけないことをあっさり忘れるような、厄介ともいえる回路を人はあわせ持つ。
茗荷の葉の向こう側。気絶寸前に見たオキチ様の双眸(そうぼう)は、年を経るごとに、私の中で深い悲しみの色に塗り替えられている。
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