2007年5月5日土曜日

父エッセイ8 「アイスクリーム」

「こんな風に、何も食べられなくなる病気になるなんて夢にも思わなかった……」。しわがれた小さな声を出す父が病院のベッドにいた。

父の胃を全摘した医師は、「すでに転移があり、再発はまぬがれず、死もそんなに遠くではないでしょう」、と家族に告知をした。
父ががんになった1985年頃の患者本人への平均的告知率は10%内外であった。10年後の1995年になって30%、1998年頃で50%となっている。(‘98年3月28日の毎日新聞朝刊より)
2000年になるとカルテ開示の流れが出て、患者本人もカルテを見ることができるようになり、がんを隠すことができなくなった。また、治療成績の向上に伴ってがんと共生をする人々が増え、さらに発症を受け入れて意欲的に闘病を続けていくことが有効であることも実証されて、その後告知率は上昇をしていく。現在、がんは慢性疾患とも言われるようになり、告知率100%の病院があることも、珍しくはなくなった。
父ががんになった15年前、一般的な告知率の低さから言えば、父に告知しなかったことは仕方ない事であったかもしれないが、父の命は父のもの、それを家族が勝手に握り締めていいはずはないと私たちは悩んだ。けれども、生きる期限を区切られた父の精神面を受け止める自信はなく、せめて父に苦痛が訪れないようにと願うのが精一杯で、悲しむ間もなく次々とやってくる現実に、アタフタと流されていくばかりだった。

CTで撮影された父の体のそこここにがんの転移の黒い影があった。特に胆嚢にできた腫瘍は父の腹の皮を破り腹部に大きな穴を開けた。そこから絶え間なく出て来る胆汁は、穴の周りの皮膚を溶かしはじめていて、ガーゼを取り替えるたびに父のうめき声が廊下まで聞こえた。
腹に開いた穴のために口から食べ物を摂ることはできない、と父には説明をしてあったが、実際は食道の下部にも転移した腫瘍があって食物の流動を妨げていた。口を湿らす程度の水分なら吐くことは無かったが、少しでも多くの水分を飲み込むと父は吐いた。
ある日、アイスクリームがどうしても食べたいと言うので、主治医に聞きにいった。「巾着のように閉じたところに物を流し込むようなものですから吐くことは間違いないでしょうが、一口くらいなら大丈夫かもしれないから、食べさせてあげてください。食べて吐くようだと患者さんも諦めがつくこともあります」。
親切なようで、それでいて非常に冷たい言葉だった。
死を徐々に受け入れていくということはこういうことなのか、と思った。
売店でアイスクリームを買って父に見せたら大喜びだった。
一口食べる。もうよそうね、と言う。もう一口くれよ、もう一口だけ、と父が言う。薄っぺらな木のへらにアイスクリームを乗せて父の口に運ぶ。美味そうにしていたのは数分のみで、父はすぐに吐いた。
以後、父は口からものを摂り入れたいとは言わなくなった。
腎臓の機能も衰えて、腎不全を起こしかけているのか意識が時折混濁するようになった。
「きみちゃん、そこにアイスクリームがあるような気がしてしょうがないんだけど、取ろうとすると無くなってしまう。あるだろう? そこに」。父の目はうつろだった。私は「あるよ。ここに。寝て起きたら食べようね」、と答えた。
父はうつらうつらと眠るようになった。
呼び寄せられた親戚が、次々と病室を訪れた。父は焦点のぼやけたような顔でやっとの思いのように言葉を口から出した。「俺は幸せだった。子供は元気で独立して家庭を持っている。子どもの幸せは親の幸せだ」。小さな声だったが、繰り返し繰り返し言った。父が生をあきらめたのだ、と私には思えた。
数日後の明け方に父の体温は徐々に下がっていった。
私を抱き上げて柚子の樹の下に連れていってくれた父の若かった手。一家を支えてくれた、がっしりとした父の手。一度も私の頭に振り上げられることのなかった父の柔らかな手。病気を治そうと点滴を受けていた頃の父の手。その手が今、冷たくなっていこうとしていた。私は自分の両手で父の手を包みこんで温めながら、涙を流した。悲しみをもう父に隠す必要はなかった。

最期にアイスクリームの幻まで見て逝った父は、食べることが本当に好きだった。柚子、桃、無花果、スイカ、木苺、蜜柑、いろいろな食べ物が季節ごとに店頭に並ぶ。父の想い出も季節ごとにめぐってくる。ありがたいことである。

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