がんエッセイ17「風信子」
木曜日のエッセイ第135回 「風信子」
風は、ツクエかまえの中にチョンが一つと虫が入る。ツクエかまえとチョンは【凡】で、ふう・ぼん、と読む。【凡】は風をはらむ帆の象形である。【虫】は風雲に乗る龍の意味があって、龍が空を満遍なく行き来して起こるものが【風】ということなのだろう。風は熟語となって勢いや様子、しきたりや慣習、教えや導き、速さや風景、病気なども表す。
★
向かい風に自転車を一所懸命に漕いだ。肩から下げたバックには、下総中山の法華経寺で撒かれた節分の福豆が入っている。数少ない福豆なのに私をめがけてまっすぐに飛んできたありがたい福豆なのだ。バックの中にはもう一つ大事なものが入っている。CODIVAのチョコレート。バレンタィンデーが過ぎた今日でも, CODIVAゆえに意味がある。福豆と一緒にKさんに渡して、ホワイトデーのお返しをもらうのだ。
向かい風に自転車を漕ぐ。前方に橋。角度が急なので若者のようにお尻を挙げて漕ぐ。太ももが痛くなるほど漕ぐ。向かい風に負けたくない。橋の中央に来た。汐の香りがした。遠く海の方角には空があけていて、人の生死にかかわらぬ風景が広がっている。腹がたつ。目の隅に置く。橋を下ると今度はビル風。負けないで漕ぐ。巻き上がる風を蹴散らして漕ぐ。再び向かい風。ひたすら漕ぐ。やがて広小路の混雑。人の流れに意地を通すように自転車に乗ったままで通過する。天神坂下を右に折れて、旧岩崎庭園の椿の生垣に沿いながら道なりに坂を上っていく。しばらく行くと右側にやっと、めざす東大病院が見えてきた。
★
坂道を登りきったところに自転車を止めて、東大病院の正面玄関を入った。受付で病室訪問の可否を確認してもらう。OKとの事。Kさんにお会いするのは一年半ぶりである。「元気そう。移植患者じゃないみたい。はい福豆!それからチョコ。義理(笑)。それから落語本」「有難う。これ病状。それから骨髄移植に向かう今の気持ち」彼はA4二枚に書かれた文章を私にくれる。「用意がいい優秀患者ね」「でしょ」
落語の話や幼い頃の話に盛り上がり、途中で気がついて声を沈める。点滴を取替えに来た看護師さんに「御気分は?」と訊かれてKさんは私を指さして「ドキドキ!」との冗談も。看護師さんはあらあら、と笑って出て行かれた。移植前治療で思ったほどの吐き気やトラブルがなかったので良かったこと、移植前で気が高ぶっていたので饒舌になってしまってごめんなさい、とあとで謝りのメールが届いた。
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骨髄移植は骨髄の中に多くある「造血幹細胞」を白血球の型(HLA)に合う人から戴くことである。提供する側は無償の行為で、事前準備に多くの時間を要する。病気がないかの全身検査はもちろんの事、提供までの気持ちを支えてくれるコーディネーターもつけられる。移植希望の患者さんとHLAが適合すると、全身麻酔で採取するために4泊5日の入院生活となる。骨髄提供日時は後日いろいろなことが想定されるので、口外してはならないようである。
提供される患者さんのほうは移植日が決定すると、自身のがん化した細胞を極力たたくために、抗がん剤治療を開始して、移植される健康な造血幹細胞が定着しやすいように体の状態を整えていく。移植は点滴によって行われる。移植後に、提供していただいた方に手紙を書けるのも二通までと決まっているそうである。
私が見舞ったKさんは移植を六日後に控えた患者さんである。初期治療で寛解に至り職場復帰をしていた彼から、再発しましたので骨髄移植に向かっています、とメールが来たのは昨年の晩秋だった。冗談の混じった文面であったが、罹患体験の私としては軽口をたたく彼の心情が少しはわかる気がした。骨髄移植患者会や、治療情報が入手できる患者会など、私の知っている限りの情報をメール送信した。
年が明けてから東大病院で移植を受けることに決まった、とメールが来た。移植はHLAが適合するだけで赤血球のほうは無視されるから、激しい下痢、高熱、つばも飲み込めない口の中の炎症など、激しい拒絶反応が起こる。
患者さんの戦いが始まる。新しい命の誕生だから向かって乗り越えて行く、とKさんは言う。
★
一滴の血液があれば薬の効きやすさについて30分以内に遺伝子の型から診断する手法を理化学研究所などの研究グループが開発をした、と2月の新聞に載った。抗がん剤が効く遺伝子型を持つ患者と、効果が期待できずに副作用の懸念だけある遺伝子型の患者を正確に判別できたとある。抗がん剤に耐性ができてしまう場合や、急ぎ治療しなければ命が危ない場合など、効くのか効かないのかわからない治療で無駄な日数を過ごさないで済むのだ。医学に後退はない。日々新しい風が吹く。とにかく移植が成功してくれればと祈る。
★
移植7日目ですとメールがきた。白血球数が200でふらふらしています。口内炎防止のために良い方法を思いつきました。特許が取れそうです。下痢は多分これからです、とまたKさんらしい冗談交じりのメールだったが、無菌室にいる重篤さをメールから読み取る。
Kさんが無菌室から出てきたら、風信子を持ってお見舞いに行こうと思っている。風信子と書いてヒヤシンス。球根性多年草で耐寒性、ギリシャ神話の美青年ヒュアキントスからの命名で大量の血から生まれた花とされる。鉢植えは根がある=寝付くと解釈されてゴロが悪いとお見舞い品には不適切だが、移植のKさんに風信子は最適であるとおもう。向かい風の中の新しい血! 根づいてKさんの生を後押しできる追い風になってほしい。
風は、ツクエかまえの中にチョンが一つと虫が入る。ツクエかまえとチョンは【凡】で、ふう・ぼん、と読む。【凡】は風をはらむ帆の象形である。【虫】は風雲に乗る龍の意味があって、龍が空を満遍なく行き来して起こるものが【風】ということなのだろう。風は熟語となって勢いや様子、しきたりや慣習、教えや導き、速さや風景、病気なども表す。
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向かい風に自転車を一所懸命に漕いだ。肩から下げたバックには、下総中山の法華経寺で撒かれた節分の福豆が入っている。数少ない福豆なのに私をめがけてまっすぐに飛んできたありがたい福豆なのだ。バックの中にはもう一つ大事なものが入っている。CODIVAのチョコレート。バレンタィンデーが過ぎた今日でも, CODIVAゆえに意味がある。福豆と一緒にKさんに渡して、ホワイトデーのお返しをもらうのだ。
向かい風に自転車を漕ぐ。前方に橋。角度が急なので若者のようにお尻を挙げて漕ぐ。太ももが痛くなるほど漕ぐ。向かい風に負けたくない。橋の中央に来た。汐の香りがした。遠く海の方角には空があけていて、人の生死にかかわらぬ風景が広がっている。腹がたつ。目の隅に置く。橋を下ると今度はビル風。負けないで漕ぐ。巻き上がる風を蹴散らして漕ぐ。再び向かい風。ひたすら漕ぐ。やがて広小路の混雑。人の流れに意地を通すように自転車に乗ったままで通過する。天神坂下を右に折れて、旧岩崎庭園の椿の生垣に沿いながら道なりに坂を上っていく。しばらく行くと右側にやっと、めざす東大病院が見えてきた。
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坂道を登りきったところに自転車を止めて、東大病院の正面玄関を入った。受付で病室訪問の可否を確認してもらう。OKとの事。Kさんにお会いするのは一年半ぶりである。「元気そう。移植患者じゃないみたい。はい福豆!それからチョコ。義理(笑)。それから落語本」「有難う。これ病状。それから骨髄移植に向かう今の気持ち」彼はA4二枚に書かれた文章を私にくれる。「用意がいい優秀患者ね」「でしょ」
落語の話や幼い頃の話に盛り上がり、途中で気がついて声を沈める。点滴を取替えに来た看護師さんに「御気分は?」と訊かれてKさんは私を指さして「ドキドキ!」との冗談も。看護師さんはあらあら、と笑って出て行かれた。移植前治療で思ったほどの吐き気やトラブルがなかったので良かったこと、移植前で気が高ぶっていたので饒舌になってしまってごめんなさい、とあとで謝りのメールが届いた。
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骨髄移植は骨髄の中に多くある「造血幹細胞」を白血球の型(HLA)に合う人から戴くことである。提供する側は無償の行為で、事前準備に多くの時間を要する。病気がないかの全身検査はもちろんの事、提供までの気持ちを支えてくれるコーディネーターもつけられる。移植希望の患者さんとHLAが適合すると、全身麻酔で採取するために4泊5日の入院生活となる。骨髄提供日時は後日いろいろなことが想定されるので、口外してはならないようである。
提供される患者さんのほうは移植日が決定すると、自身のがん化した細胞を極力たたくために、抗がん剤治療を開始して、移植される健康な造血幹細胞が定着しやすいように体の状態を整えていく。移植は点滴によって行われる。移植後に、提供していただいた方に手紙を書けるのも二通までと決まっているそうである。
私が見舞ったKさんは移植を六日後に控えた患者さんである。初期治療で寛解に至り職場復帰をしていた彼から、再発しましたので骨髄移植に向かっています、とメールが来たのは昨年の晩秋だった。冗談の混じった文面であったが、罹患体験の私としては軽口をたたく彼の心情が少しはわかる気がした。骨髄移植患者会や、治療情報が入手できる患者会など、私の知っている限りの情報をメール送信した。
年が明けてから東大病院で移植を受けることに決まった、とメールが来た。移植はHLAが適合するだけで赤血球のほうは無視されるから、激しい下痢、高熱、つばも飲み込めない口の中の炎症など、激しい拒絶反応が起こる。
患者さんの戦いが始まる。新しい命の誕生だから向かって乗り越えて行く、とKさんは言う。
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一滴の血液があれば薬の効きやすさについて30分以内に遺伝子の型から診断する手法を理化学研究所などの研究グループが開発をした、と2月の新聞に載った。抗がん剤が効く遺伝子型を持つ患者と、効果が期待できずに副作用の懸念だけある遺伝子型の患者を正確に判別できたとある。抗がん剤に耐性ができてしまう場合や、急ぎ治療しなければ命が危ない場合など、効くのか効かないのかわからない治療で無駄な日数を過ごさないで済むのだ。医学に後退はない。日々新しい風が吹く。とにかく移植が成功してくれればと祈る。
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移植7日目ですとメールがきた。白血球数が200でふらふらしています。口内炎防止のために良い方法を思いつきました。特許が取れそうです。下痢は多分これからです、とまたKさんらしい冗談交じりのメールだったが、無菌室にいる重篤さをメールから読み取る。
Kさんが無菌室から出てきたら、風信子を持ってお見舞いに行こうと思っている。風信子と書いてヒヤシンス。球根性多年草で耐寒性、ギリシャ神話の美青年ヒュアキントスからの命名で大量の血から生まれた花とされる。鉢植えは根がある=寝付くと解釈されてゴロが悪いとお見舞い品には不適切だが、移植のKさんに風信子は最適であるとおもう。向かい風の中の新しい血! 根づいてKさんの生を後押しできる追い風になってほしい。
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