父エッセイ10「秋刀魚」
私たち夫婦は結婚をしてすぐに、夫がそれまで勤めていた仕事の暖簾わけを許されて独立開業をした。4坪ばかりの店舗に6畳一間と小さな台所がついているだけの一軒家を借りた。トラックを買って倉庫を借りて、商売に注ぎ込むお金は際限もなく入用で経済的にはとても苦しい状態だった。買掛金の支払いが、意外な早さで毎月やってきた。売掛金は蓄えられる間もなく、すぐに仕入代金として出ていき、在庫という財産は増えているものの、帳簿上での利益がゆとりとして生活に現れず、自転車操業をしているのかと錯覚するような日々が続いていた。
父は大衆食堂を経営していたので、食物が豊富にあった。米・味噌・醤油・業務用ソース・菊川という二級のお酒やキリンレモン。魚河岸から入ったばかりの秋刀魚、鯖。八百屋物の葱、キャベツ……。
父はそれらのものを、お米だったら業務用の20キロ単位で。お酒ならケースごと。何でも大量に休日ごとに私の家に運んでくれた。父が持ちこんでくれた食料品は、我が家の経済状況の中では本当にありがたかった。
私が父親離れをしない娘だったのか、それとも、父親が単にお節介精神旺盛な性格だったのかは良くは分からないが、結婚という形で他家に出た娘であったにもかかわらず、私は長い間、父親の存在を極めて身近に感じて過ごした。
★
「秋刀魚の炊き込みご飯を作ったから、今から持って行く。お昼ごはんを食べないで待ってな」
父から電話があった。時計を見たら11時だった。夫は柏市までトラックに満載した製品を運ぶ仕事があったので、車が混まないお昼休みに走ろうと、その日は早昼を予定していた。
父がバスに乗ってすぐ来るのであれば早昼に間に合う。私は味噌汁を作って待っていた。父は道路が混んでいてバスがちっとも進まなかった、待たせて悪かったねぇ、と言いながら12時近くになってやっと到着して、重箱にたっぷり入っている秋刀魚の炊き込みご飯を上がり框に置いた。夫は、いつも悪いですねぇ、と父には言ったものの、あきらかな不機嫌さを私にだけ見せて、「お父さんと一緒にご飯を食べなさい」と言って、自分は食べないで配達に出て行ってしまった。
その夜、私たちは小さな諍いをした。秋刀魚の炊き込みご飯は小骨があって生臭くって嫌いだし、お義父さんが持ってきてくれるお酒は大衆食堂で出す2級酒であって、そんなもの、うまいと思って飲んだことはない。結婚をしたのだからキャベツや葱まで実家からもらうんじゃない。あげるといわれても断ればいい。お父さんは娘を嫁にやったという自覚がないのだ、と夫は言った。
★
姓を変えて他家に行く気持ちは、所詮、男の人にはわからない。例え好きな男に嫁ぐのだとしても、なじんだ姓から新しい姓になれるには時間がかかる。一切のものを捨てて行く覚悟もいる。一切の中にはもちろん実家での生活習慣も入る。特に食生活などは働き手の夫に、まずはあわせなければならない。
私は夫の実家から送ってくるサトイモを丸ごと辛く煮たものは大嫌いだった。大量に届いた日には悲鳴を上げた。夫はこんな美味しいものはないと私に上機嫌で勧める。朴の葉に乗せて焼く味噌も夫の好物だったが、その匂いにはなじめず、私の焼き方は下手で、焼き味噌はいつも焦げた。
実家はお酒を飲む習慣がなかったので、お酒を飲みながら長くかかる夫との食事時間もえらく無駄なような気がした。夫も我慢しているかもしれないけれど私だって慣れようとしているのだ。
その夜、手をつけられなかった夫の分の炊き込みご飯を流しに捨てた。脂の乗ったさんまの小口切りが、ぷっくらとした形でご飯の間から見えていた。私に注いでくれた父の愛情と血のつながりをも、無造作に捨てたようで切なかった。
★
江東区には南北に走る大きな道路が幾本かあるが、隅田川より数えて二つ目の通りを清澄通りという。清澄通りを門前仲町交差点から信号にして三つ北上すると、明治小学校脇の歩道橋に出る。その袂に、この近辺に小津安二郎の生家があったとの案内板が出ている。すぐ近くの深川一郵便局の奥に下町らしい路地風景が残っていて、地元ではその辺だろうという話である。
路地に入ると、まだ青い夏みかんの大きな樹が日陰を作っている。小さな間口の家々。少し開けられた引き戸。その間をさわさわと過ぎていく風。家の脇に吊り下げられたシュロの箒と塵取り。なぜかこの一帯だけがセピア色がかって見える。
父は大衆食堂を経営していたので、食物が豊富にあった。米・味噌・醤油・業務用ソース・菊川という二級のお酒やキリンレモン。魚河岸から入ったばかりの秋刀魚、鯖。八百屋物の葱、キャベツ……。
父はそれらのものを、お米だったら業務用の20キロ単位で。お酒ならケースごと。何でも大量に休日ごとに私の家に運んでくれた。父が持ちこんでくれた食料品は、我が家の経済状況の中では本当にありがたかった。
私が父親離れをしない娘だったのか、それとも、父親が単にお節介精神旺盛な性格だったのかは良くは分からないが、結婚という形で他家に出た娘であったにもかかわらず、私は長い間、父親の存在を極めて身近に感じて過ごした。
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「秋刀魚の炊き込みご飯を作ったから、今から持って行く。お昼ごはんを食べないで待ってな」
父から電話があった。時計を見たら11時だった。夫は柏市までトラックに満載した製品を運ぶ仕事があったので、車が混まないお昼休みに走ろうと、その日は早昼を予定していた。
父がバスに乗ってすぐ来るのであれば早昼に間に合う。私は味噌汁を作って待っていた。父は道路が混んでいてバスがちっとも進まなかった、待たせて悪かったねぇ、と言いながら12時近くになってやっと到着して、重箱にたっぷり入っている秋刀魚の炊き込みご飯を上がり框に置いた。夫は、いつも悪いですねぇ、と父には言ったものの、あきらかな不機嫌さを私にだけ見せて、「お父さんと一緒にご飯を食べなさい」と言って、自分は食べないで配達に出て行ってしまった。
その夜、私たちは小さな諍いをした。秋刀魚の炊き込みご飯は小骨があって生臭くって嫌いだし、お義父さんが持ってきてくれるお酒は大衆食堂で出す2級酒であって、そんなもの、うまいと思って飲んだことはない。結婚をしたのだからキャベツや葱まで実家からもらうんじゃない。あげるといわれても断ればいい。お父さんは娘を嫁にやったという自覚がないのだ、と夫は言った。
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姓を変えて他家に行く気持ちは、所詮、男の人にはわからない。例え好きな男に嫁ぐのだとしても、なじんだ姓から新しい姓になれるには時間がかかる。一切のものを捨てて行く覚悟もいる。一切の中にはもちろん実家での生活習慣も入る。特に食生活などは働き手の夫に、まずはあわせなければならない。
私は夫の実家から送ってくるサトイモを丸ごと辛く煮たものは大嫌いだった。大量に届いた日には悲鳴を上げた。夫はこんな美味しいものはないと私に上機嫌で勧める。朴の葉に乗せて焼く味噌も夫の好物だったが、その匂いにはなじめず、私の焼き方は下手で、焼き味噌はいつも焦げた。
実家はお酒を飲む習慣がなかったので、お酒を飲みながら長くかかる夫との食事時間もえらく無駄なような気がした。夫も我慢しているかもしれないけれど私だって慣れようとしているのだ。
その夜、手をつけられなかった夫の分の炊き込みご飯を流しに捨てた。脂の乗ったさんまの小口切りが、ぷっくらとした形でご飯の間から見えていた。私に注いでくれた父の愛情と血のつながりをも、無造作に捨てたようで切なかった。
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江東区には南北に走る大きな道路が幾本かあるが、隅田川より数えて二つ目の通りを清澄通りという。清澄通りを門前仲町交差点から信号にして三つ北上すると、明治小学校脇の歩道橋に出る。その袂に、この近辺に小津安二郎の生家があったとの案内板が出ている。すぐ近くの深川一郵便局の奥に下町らしい路地風景が残っていて、地元ではその辺だろうという話である。
路地に入ると、まだ青い夏みかんの大きな樹が日陰を作っている。小さな間口の家々。少し開けられた引き戸。その間をさわさわと過ぎていく風。家の脇に吊り下げられたシュロの箒と塵取り。なぜかこの一帯だけがセピア色がかって見える。
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