2007年9月13日木曜日

父エッセイ 14 「枇杷」

「枇杷」



枇杷の木を屋敷内に植えると縁起が悪いという語り伝えがある。
枇杷の木はお寺に多い。お寺は死に繋がるところで、死を『忌む』(不吉なこと、汚らわしいこととして避け、嫌う)ととらえる日本的宗教観から、枇杷の木のあるところは不吉という図式らしい。
しかし、昔のお寺は診療所の役目をしていたこともあって、寺に植えた枇杷の葉は煎じて薬用に使われていたものであるらしい。人の役に立つ枇杷……私はこちらの説を信用している。その枇杷の実が深川の寺町にちらほらと見られる季節になった。

昭和33年、私は9歳だった。愛知県で農業を営んでいる両親の長女として、畑の手伝いをしたり、遊んだり、そろそろ自分というものが分かりかけて人生の出発点に立っているような頃だった。
私は一歳前の妹をいつも背負っていた。弟妹の面倒を見るのは当時当たり前のことで、背負ったままでかくれんぼや追いかけっこをして遊んだ。時には赤ん坊と一緒に乳母車に乗り込んで坂道を勢いよくかけ下り、挙句の果てに転覆。赤ん坊ともどもできたタンコブの言い訳に、知恵を絞ったりもした。
家の近くに安楽寺という寺があり、そこに枇杷の大木があった。登りやすい木だった。葉の間には大粒でつややかな実が見え隠れしていた。樹の下で少し思案したが、一緒に遊んでいた友達に押し上げてもらって、妹を背負ったままで樹に登った。枝につかまって動ける範囲の枇杷をいくつかちぎって下に投げた。しばらくすると渡り廊下にヒタヒタと音がして住職さんが現れた。「危ないから降りなさい。欲しかったらあとであげるから」。
記憶はそこでとぎれ、後日、仏間の隣の暗い部屋に隠れている自分につながる。毎月七日は祖父の月命日で住職さんが経を上げに来ていた。普段は食べられない白米の炊き込みご飯が、お参りを終えた住職さんの前で湯気を立てていた。しかし私は『枇杷の一件』が、家族に告げられることを思うと暗い部屋で胸がふさがりそうだった。 
住職さんが帰った後に叱られた記憶はない。それどころか、お土産にと持ってきてくれた枇杷が仏壇に上がっていて「『妹の面倒を見る良い子だ』と住職さんがほめていた」と祖母が笑顔で私に言った。

枇杷に出合うと、その向こうに白米ご飯が湯気を立て、咎められずにほっとしてご飯を食べている自分の幼い姿が見える。