がんエッセイ8 「100円玉の悲しさ」
私の手元に、“くすりと社会を考える本”と副題のついた『Capsule』(日本製薬工業協会広報委員会発行)という冊子がある。
その裏表紙に白いひげをたっぷり生やしたドイツ病理学者、ウィルヒョーの写真が掲載されている。写真の下には1800年代に、彼が細胞病理学を打ち立て、細胞が生命の基本の単位であることを証明し、あらゆる病理現象は生理の担い手としての細胞の変化に帰着すると説いた、とある。
★
1992年1月、一つの細胞が異常増殖を始めていると告知された。異常増殖細胞が血流に乗れば体内のあらゆるところに着地の可能性があり、着地した細胞はそこからまた新たな増殖を続けるという。それがその固体の命そのものを食いつぶしていくことになると説明を受けた。
死んでしまう前に私は緊急入院をさせられて異常増殖細胞の塊を開腹手術で除去してもらい、さらにその後、ミクロ(1ミリの100分の一)レベルの転移をカバーするために、化学療法を一年間に渡って10クール施された。そして経過観察の札を首にかけられて、病院から出された。
私はがん患者である。現代医療の定義では、がんに完治はない。がんに罹患したあと運良く健康状態に戻ったとしても、安定した状態が固定して続く『寛解』という概念に過ぎず、それが自分の寿命まで続けばいいというだけのことである。
再発という爆弾を抱え持っているが、何に用心したらいいのか解からないのが現状である。
★
がん病棟に入院していた時、乳がんが肺転移をしてさらに心臓の膜にも水がたまっているというMさんがいた。病院内の情報に詳しく、同室の患者さんをそっと指差して、あの人はもう駄目だと思うわ、とか、あの色の薬はあのがんには効かないはずよ、とはばからずに言う人で、Mさんは知りたくもない病気の情報をくれる怖い人と言われていた。
がん病棟は水槽の澱の中にあるようだった。同室の人たちは再発の人ばかりで、天井から下げた紐にもう動かなくなってしまった両足をつるして、それを自分で引っ張って起き上がっている人がいた。その紐を引っ張れるかどうかが、一日を生きて明日につなげる証になるという。がんばったその人は亡くなり、旦那さんが廊下で大声で泣きわめいていた。がんになって初めて見た死だった
どうもがいても水面には出られそうにないこの悲しい病室に、どうして自分は迷い込んでこなければいけなかったのか、病棟は死の色に満ちていて、私は恐怖に近い気持ちでいた。その私にMさんが言った「私はこの病院に長くいるから、あなたにとっていいことを教えてあげる。あなたの主治医は絶対に治る患者しか持たないから、患者は誰も死んでいないわ。大丈夫。あなたは家に帰れる」。彼女の黒目がねっとりと私をはずさずにいた。
私は有難うと言った。
苦しい入院生活だったが、彼女の予測どおり無事に治療を終了して私は退院をした。彼女は素人の私でも分かるような、肩を大きく上げ下げする息をして、太陽の光が通り抜けそうに透き通った薄い頬で私を見送ってくれた。
退院をした夜に彼女から電話があった。「自宅はどお? 畳はいいでしょ。いいなぁ退院できて。私も退院をしようと思うの。心臓にたまっている水を抜かせて欲しいと医師が言うから、治療成績向上のためのデーターに貢献を済ませてね、酸素ボンベ付きで明日家に帰るの。家には高校生の娘が一人で留守番をしているのよ。再発再発で、もういや。今ね、持っているお金を全部窓から捨てたの。10円玉や100円玉、全部投げ飛ばしたら、遠くでチャリンチャリンって音がしたわ」。それからしばらくして彼女は亡くなった。
★
ウィルヒョーが細胞病理学を打ち立ててからら200年。人間は約60兆個の細胞から成り立っていることが分かった。細胞には核がありその中の染色体には長いひも状の『DNA』が存在している。そのDNAの中で必要なたんぱく質の合成のための情報を担っている部分を『遺伝子』と呼ぶという。
病理が遺伝子レベルで究明できるようになった今、現実に転移性乳がんについてはHER2過剰出現タイプにハーセプチンガ有効であるとして、すでに投与も始まっている。近い将来、個人のもつ遺伝子を調べて、予測できる病気の予防を可能にする時代が来るかもしれない。反面、知らないでも済むことまでが分かるようになり、価値観が変化して人間の質も変わってしまうかもしれない。遺伝子工学が発達していったら、弱者をあるがままに受け入れて愛する気持ちは残っていくだろうか。病気のときの患者の悲しい心や、どうしようもない苛立ちを、包み込んで受け止めてあげなければいけない人間的な優しさは残っていくだろうか。
1月が終わると、がんから丸11年が過ぎたことになる。遠い昔のことであるような気もするが、昨日の事のような気もする。
去って行った病友を時々思い出す。
その裏表紙に白いひげをたっぷり生やしたドイツ病理学者、ウィルヒョーの写真が掲載されている。写真の下には1800年代に、彼が細胞病理学を打ち立て、細胞が生命の基本の単位であることを証明し、あらゆる病理現象は生理の担い手としての細胞の変化に帰着すると説いた、とある。
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1992年1月、一つの細胞が異常増殖を始めていると告知された。異常増殖細胞が血流に乗れば体内のあらゆるところに着地の可能性があり、着地した細胞はそこからまた新たな増殖を続けるという。それがその固体の命そのものを食いつぶしていくことになると説明を受けた。
死んでしまう前に私は緊急入院をさせられて異常増殖細胞の塊を開腹手術で除去してもらい、さらにその後、ミクロ(1ミリの100分の一)レベルの転移をカバーするために、化学療法を一年間に渡って10クール施された。そして経過観察の札を首にかけられて、病院から出された。
私はがん患者である。現代医療の定義では、がんに完治はない。がんに罹患したあと運良く健康状態に戻ったとしても、安定した状態が固定して続く『寛解』という概念に過ぎず、それが自分の寿命まで続けばいいというだけのことである。
再発という爆弾を抱え持っているが、何に用心したらいいのか解からないのが現状である。
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がん病棟に入院していた時、乳がんが肺転移をしてさらに心臓の膜にも水がたまっているというMさんがいた。病院内の情報に詳しく、同室の患者さんをそっと指差して、あの人はもう駄目だと思うわ、とか、あの色の薬はあのがんには効かないはずよ、とはばからずに言う人で、Mさんは知りたくもない病気の情報をくれる怖い人と言われていた。
がん病棟は水槽の澱の中にあるようだった。同室の人たちは再発の人ばかりで、天井から下げた紐にもう動かなくなってしまった両足をつるして、それを自分で引っ張って起き上がっている人がいた。その紐を引っ張れるかどうかが、一日を生きて明日につなげる証になるという。がんばったその人は亡くなり、旦那さんが廊下で大声で泣きわめいていた。がんになって初めて見た死だった
どうもがいても水面には出られそうにないこの悲しい病室に、どうして自分は迷い込んでこなければいけなかったのか、病棟は死の色に満ちていて、私は恐怖に近い気持ちでいた。その私にMさんが言った「私はこの病院に長くいるから、あなたにとっていいことを教えてあげる。あなたの主治医は絶対に治る患者しか持たないから、患者は誰も死んでいないわ。大丈夫。あなたは家に帰れる」。彼女の黒目がねっとりと私をはずさずにいた。
私は有難うと言った。
苦しい入院生活だったが、彼女の予測どおり無事に治療を終了して私は退院をした。彼女は素人の私でも分かるような、肩を大きく上げ下げする息をして、太陽の光が通り抜けそうに透き通った薄い頬で私を見送ってくれた。
退院をした夜に彼女から電話があった。「自宅はどお? 畳はいいでしょ。いいなぁ退院できて。私も退院をしようと思うの。心臓にたまっている水を抜かせて欲しいと医師が言うから、治療成績向上のためのデーターに貢献を済ませてね、酸素ボンベ付きで明日家に帰るの。家には高校生の娘が一人で留守番をしているのよ。再発再発で、もういや。今ね、持っているお金を全部窓から捨てたの。10円玉や100円玉、全部投げ飛ばしたら、遠くでチャリンチャリンって音がしたわ」。それからしばらくして彼女は亡くなった。
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ウィルヒョーが細胞病理学を打ち立ててからら200年。人間は約60兆個の細胞から成り立っていることが分かった。細胞には核がありその中の染色体には長いひも状の『DNA』が存在している。そのDNAの中で必要なたんぱく質の合成のための情報を担っている部分を『遺伝子』と呼ぶという。
病理が遺伝子レベルで究明できるようになった今、現実に転移性乳がんについてはHER2過剰出現タイプにハーセプチンガ有効であるとして、すでに投与も始まっている。近い将来、個人のもつ遺伝子を調べて、予測できる病気の予防を可能にする時代が来るかもしれない。反面、知らないでも済むことまでが分かるようになり、価値観が変化して人間の質も変わってしまうかもしれない。遺伝子工学が発達していったら、弱者をあるがままに受け入れて愛する気持ちは残っていくだろうか。病気のときの患者の悲しい心や、どうしようもない苛立ちを、包み込んで受け止めてあげなければいけない人間的な優しさは残っていくだろうか。
1月が終わると、がんから丸11年が過ぎたことになる。遠い昔のことであるような気もするが、昨日の事のような気もする。
去って行った病友を時々思い出す。
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