2007年5月5日土曜日

父エッセイ3 「ホウレン草」

祖母は編み物をしていた。寄せ集めた毛糸で縞模様になる何かを編んでいたが、編み棒と同じように口が良く動いていた。「おみゃあさんが・・・おみゃあさんが・・・」(注:名古屋弁で、『貴女が』のこと)と母に対して叱責をしている口調だった。
私は板の間に伏してぬり絵をしていた。私が何歳だったか、2歳下の弟は家のどこにいたのか、8歳下の妹は生まれていたのか何も覚えていない。私の耳は象のダンボの様に大きくなっていたと思うが、祖母が何を言っているのか、その細かな意味は理解できなかった。
ただ、家中の空気がピリピリと張り詰めていた感覚が残っている。

叱責とも愚痴とも取れる祖母の言葉群はいつまでもだらだらと続いていた。母は薄暗い土間のどこかに立っているようだった。かまどの上の大きな鍋にはほうれん草を茹で終えた汁が残されていて、そこから甘い匂いの湯気が立ちのぼっていた。
農業の合間に道路工事の日雇いに行っていた父は、夜、家に帰るといつもタライに湯を張って足を洗っていたから、かまどに残っていたほうれん草の茹で汁は、多分その日の父の足を洗うものだったのだろう。張り詰めた空気をほぐすかのように立ちのぼっていた湯気が、突然揺れて割れた。
「私のようなものは死んでしまうから!」と母が大きな声で叫び、戸口に走った。祖母は「きみこ!お母さんを押さえやぁ!」と言った。私はわけも分からず裸足で土間に下りて、母の足を両手でしっかり抱いて押さえた。子どもの小さな両腕など振りほどこうと思えば簡単だったはずなのに、母は足を私に抱かせたまま泣いていた。  
死ぬとはどういうことなのかと一瞬思ったが、ほうれん草の茹で汁の甘い匂いが再び漂って、頭の中はすぐにぬり絵の事でいっぱいになり、ほうれん草のような緑色もきれいだなと思っていた。

父がいつ帰ってきたのか、その日の嫁姑の争いの原因や行く末がどうなったのか、幼かった私にはいまでも霧の中だ。
トラウマ(心的外傷)という症例に入るほど重くはないが、私は大声を出される状況に行き当たるとひどく心が落ち着かなくなる。不安な状況を回避したいためか無意味にへら~と笑ってしまったり、はたまたやたらテンション高くなって多弁になってしまったりする。よく笑ってよくしゃべると人に言われるが、そんな自分を分析するとここに行き着く。
人生の機微も綾もほんの少しは分かる年齢になって、当時の父や母や祖母をその家族の役割としてではなく、一個人の人間性として見つめなおせるようになった。
栄養満点のほうれん草を嫌いにならなかったことは、幸いだったと思っている。

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