2007年5月5日土曜日

父エッセイ7 「破れ稲荷」

『破れ稲荷』(第47回 20030306)
『山の手は坂で覚える。下町は橋で覚える』という言葉がある。
東京の山の手は広大な武蔵野台地の東の端にあって、緩やかな起伏で成り立っているから山に伴った坂道が多い。
下町は徳川家康が江戸入府後、物資の運搬を海路に求めたために運河が切り開かれ、そして人口が増えていくたびに東京湾の埋め立てを図ったから、橋がやたらに多い。
大塚駅を発車する錦糸町行きの都バスに乗ると、そのことがとても顕著に体験できる。
白山から下ってくる春日通りの道はかなりの急勾配で、春日町の交差点を谷にして再び上りとなり、真砂坂上から湯島天神の辺りを頂にして、もう一度、急な下りの坂道が上野広小路へと続いている。広小路から先の起伏は橋がもたらしていて、地名もだんだん海に関連するものになっていく。
広小路から北の方角には上野の山があり、北に入谷、谷中と谷の地名が残り、さらに西の方角に戻ると白山。この辺りは坂道ばかりである。
不忍通りと白山通りの交差点を動坂という。江戸時代の初期に万行上人が、この坂下に庵を設けて不動明王像を安置したので不動坂と呼ばれていたが、やがてそれは略されて、動坂と呼ばれるようになった、と町の観光案内書にあった。この坂の途中に稲荷寿司を売っている店があり、さらにその坂をのぼっていくと、がんや感染症を治療する都立駒込病院がある。15年前には、都立駒込病院に入院したらかなりの重病だと言われた。最後の望みを賭けた治療ができる医療機関の最先端だったからである。

父が胃を全摘したその翌年に、私の夫が亡くなった。
父は私を可哀想だと言い、家業の食堂で使用しているお米から魚、肉、しょうゆ、味噌にいたるまで、私の家庭に運んでくれた。
「俺は胃がなくてもこんなに元気になったんだから、まだまだ俺は頑張れる。お前の家は今が大変なんだから、俺がついていなければ」。それが父の口癖だった。
が、父はその年の夏に微熱が出て体調を崩した。再発だった。
「胃腸外科でもらっていた薬を、これまできちんと飲んでいなかったからな。これからはちゃんと飲むよ」と言った。
私は驚いて弟の家に電話をした。
「病院から出ている薬は抗がん剤だろうと思う。飲んでもらわなければ困るんだけど、仕方ないなぁ。告知をしていない害だよね。でも、ものは考えようかもしれないよ。お父さんが元気を快復したのも、がんではなかったという事を支えにしたからかもしれないしね。俺たちはお父さんのがんを告知せずに、握りこんでしまうと決めたんだから、今更ほかの道にはいけないよ」。と弟は言った。
父は駒込病院に入院をした。風邪で熱が出たから点滴をすると医師は言った。父は短期間の入院だと信じていた。夜になると私たちの家に電話を掛けてきて「今何をしている? どこも痛くないから帰りたいなぁ」と言った。
検査の結果、胆嚢にも転移があって、それはかなり大きく、父の体の皮膚を破って外に出てくるような大きさになっていた。

夫が亡くなった後の私の家庭を父は随分と助けてくれた。だから私は病院に通って父の話し相手になろうと決めた。仕事が終わると、私はバスを乗り継いで動坂下のバス停から病院を目指して毎日、坂道を上がって行った。
上がっていく途中に寿司屋があった。月末で持ち合わせがなく、安く売っていた破れ稲荷を5個だけ買った。父と一緒に少しの夕食を摂ろうと思った。病室を開けて中に入ると、父が色のない顔で寝ていた。つい先ほど、腹の腫れ物が破れて、食事は禁止になった、と言う。
「何を買ってきた?」と聞くので、「破れ稲荷があったからね、一口食べるかなと思って。……食べられないんだね。明日にしょうか」と私は答えた。
「俺はいい。お前食え。仕事が終わってすぐに来たんだろう」。
私は父に甘えるつもりで素直に食べた。父は窓のほうを見ていた。

父は蜜柑なら、5,6個、スイカなら半分は朝飯前に、マコロンが好きで袋を丸ごと……とにかく何でも良く食べる人だった。食べることが楽しみで仕方がないという食べ方だった。
転移したがんが胆嚢を破ってさらに腹部の皮を破って、父の腹に穴があいた日、何も食べられなくなったその父の前で、私は破れ稲荷を食べた。何故食べたのだろうと、チリチリチリチリと後悔の念が今でも体をめぐる。
父を越えようとは毛頭思っていないが、日々訪れる雑事のなかで状況を読み取る判断の甘さが付いて回る。父が守ってくれて今の私があるのに、父のような包容力を持ち合わせられないで、坂の途中に不安定に立っているだけのような、情けない自分である。

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