2007年5月5日土曜日

父エッセイ4 「父の匂い」

朝起きてくると、調理場の5つあるガス台の全てに大小さまざまな鍋が乗り、そこからいっせいに湯気が立っていた。
香菜、にんにく、鶏ガラの入ったスープ鍋は煮えたぎり中。豆腐と油揚げの入った味噌汁は火を止めたばかり。蒟蒻と生姜と牛蒡を炊き合わせた香りが濃く漂い、さばの味噌煮が落し蓋の下からはみ出し、ご飯を炊く釜が踊るように噴いていた。私は半目覚めのまま、調理場が見える階段に座り込んで、まるでオーケストラのような朝の調理場を見ているのが好きだった。
父は調理師の免許を持っていなかったので、職業安定所から斡旋してもらった初老のコックさんにいろいろ指導されていた。メニューの書き方、コック帽のかぶり方、烏賊の皮むきや刺身の盛り付け具合まで父に丁寧に教えてくれていた。父は自分の身丈よりやや大振りの真っ白な白衣を着てコックさんの話に神妙にうなずいていた。

父は6人兄弟の末子だったが戦争から帰ってきたのが一番早かったという理由で、家業の農業を継いだ。田も畑も養蚕もする農家であったが、農閑期には土木工事の現金収入に出向くなど暮らし向きはあまり良くなかったようだ。加えて父はアレルギー体質で養蚕のため桑畑に入らなければならないことがかなりの苦痛だったようで、農業の先行きにも不安を覚えていたらしい。
昭和34年、5000人を越える死者・行方不明者をだした伊勢湾台風が中部地方を襲った日の20日前に、父は農業に見切りをつけて田畑と家を売り払い、高齢の母親と妻と三人の子どもをつれて生き馬の目を抜くという東京に出てきた。そして東京の下町、墨田区業平橋の交差点脇に10坪ばかりの小さな大衆食堂「さかえ屋」を開店した。
当時の父の手帳をみると店舗用の家を借りて食堂の什器を買い入れると残りの手持ち金は30万とある。木造二階建て家屋の賃料が5万円の時代だったので、食堂が成功しなければ半年でドロップアウトの切羽詰った状況が読み取れる。
朝定食が、ご飯、味噌汁、納豆、お新香で150円。カレーライスが200円。営業時間は朝の六時半から夜の10時まで。売上げの予測やコックさんへの支払いなどの算段をした30代半ばの父のやる気が伝わってくる文字が手帳の中に見える。
一切を売り払ってきた郷里に再び帰ることはできず、わずかな手持ち金の中から、やがては借りていた家を買い取るまでには相当な苦労があったと思うが、調理場の湯気越しに見る父の目はいつも優しく、父の体に染み付いていったさまざまな食べ物の匂いを嗅ぎながら、私たちは安心して東京の生活になじんでいくことができた。

昭和59年6月、父は胃がんの手術をして余命3年の宣告どおりこの世を旅立って行った。
繁華街に出ると私は時々路地裏に足を向ける。特に飲食店のたくさんある路地は、チャン鍋のガチャガチャした音や、食器の触れ合う音と共に調理場の独特の匂いがあって懐かしい。白衣を着ている人の中に知らず知らずに父の面影を追っていることもある。

余談であるが、結婚をしてはじめて夫に味噌汁を作ったとき夫は「まずい」と言って箸を置いた。湯の中にお豆腐と油揚げとねぎを入れて味噌をいれた・・・私が毎朝見ていた調理場での味噌汁と全く同じ様に作ったはずだった。一人暮らしの経験もある夫は「あれはお湯を使っているんじゃなくて、だし汁を使っているんだよ」と言った。父に言ったら「たわけめ」と言われた。
食堂の娘をもらったけど失敗した、と夫はしばらく言い続けていた。

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