2007年5月5日土曜日

父エッセイ5 「フーリンリン]

火鉢の上で鉄瓶が湯気を立てていた。その横で父と伯父が碁を打っていた。
碁盤に打たれた白と黒の石が、右下から中央にもつれ合いながら伸びて陣地を取り合っていた。腕組みをして、うーんと唸る父。傍らの茶器から煎餅を一つ取り出してほおばる伯父。碁盤の残り半分には、小競り合い中の石が置かれていたが、打ち手の所作を比べれば、子どもの私でも伯父の有利は想像できた。
伯父は中央区水天宮の交差点脇で食堂を経営していた。この伯父の弟である私の父は、兄に習って名古屋から上京して墨田区業平橋の交差点脇で、同じように食堂を経営した。
水天宮から都電の『柳島』行きに乗って、伯父は我が家に碁を打ちにやってきていた。伯父には子がなく、私の父が離婚をして私を抱えたまま後添えをもらった時に、伯父が私を貰い受けたいと言ったそうだが、父は自分の初めての子だから渡さなかった、と聞いている。

父が対局できない時は、私が伯父の相手をした。もちろんお遊びもいいところで、父が登場するまでのつなぎであった。碁盤上にある『星』と呼ばれる要所に、自分の石をあらかじめ置かせてもらう。その石の四隅にさらに二目ぶら下げてもらう。ハンディ17目。これを我が家では風鈴の形と見て『風鈴プラスおまけの鈴』という意味で「フーリンリン」と呼んでいた。
「きみちゃん、フーリンリンで碁をやりょみゃーか」。伯父は我が家に来ると、丸っこい顔の中の目じりをたれさせて名古屋弁で言う。碁盤の上にフーリンリンと言いながら黒石をいっぱい置く。こんなに置かれたら伯父さんの陣地は無い様なものだわなぁ、と言いながらも、いつの間にか取れたはずの陣地は死に目となり、伯父の手元は碁笥からあふれたアゲハマでいっぱいになっていく。何手も先を読んでいかなければならない囲碁なのに、フーリンリンにしてもらっても目前の一手しか読めずに負けてしまう自分を、いつも情けなく思った。

伯父は大衆食堂経営だけでは飽き足らず、練馬に工場を建てて電機部品の会社を興した。ネクタイを締めて社長になった伯父は手形を割ってもらいに父のところに来ていた。父は現金商売なので割っていたらしいが、100万以上の手形は断っていたようだった。しばらくして電機工場はつぶれ、それから何をやっても仕事は長く続かなかった。
伯父は水天宮の伯父さんと呼ばれたあと、事業の失敗で住居を転々としたために、練馬の伯父さん、寿町の伯父さん、葛飾の伯父さん、名古屋の伯父さん、とめまぐるしく呼び名が変わった。
葛飾の伯父さんと呼ばれていた頃は、何かの国家試験を目指していて一日中勉強をしていた。私が訪ねると、いたずらっぽい目をして私を呼び「勉強はしているけど自分は中学しか出ていないので受験資格が無い。だけど女房に馬鹿にされるので、勉強に忙しいフリをしている」と小声で言った。
やがて、葛飾の線路脇のアパートをたたんで、伯父は生まれ故郷の名古屋に帰って行った。
伯父は実母が危篤になった時も駆けつけて来なかった。父は「いい兄だけど、ちょっと情に欠けるところがある」と珍しく怒った顔をしていた。

離婚を経験した父。東京に出て食堂を根気良く続けた父。金持ちでもないのに兄に手形を割ってやった父。末子なのに母の面倒を見た父。野望を持った伯父。ふるさとに帰った伯父。
50代の初めに双方が電話で大喧嘩をした。食堂のカウンターに父が一人伏せて、おいおい泣いている、と母から私に連絡があった。理由を聞いても言わないのよ、と母は困惑していたが、父と伯父の兄弟げんかに介入することはできずにそのままになった。漏れ聞こえた話では、兄弟の中で、父が幸せをみんな持ってしまったということらしかった。
名古屋に帰った伯父の気持ちは分からないわけでもないが、幸せを手の中で大事に守った父の日常は、身びいきを差し引いても納得がいくものであり、父の葬儀にも病気を理由に来なかった伯父とはその後、縁が切れている。

私と弟も中学時代から囲碁をして良く遊んだ。負けてばかりいる私がくやしさの余り、弟が中座している間に碁石を半分そっくりそのまま自分の陣地に有利になるように移動させた。席に戻った弟は作戦が狂い、あれぇ?と言ったが、まあいいかと言いながら、そのまま続け、そして私は勝った。後味の悪い勝ちであった。
弟は親切で、落ち着いている。私と妹は行動的でちゃらんぽらんで物事の詰めも甘い。だから碁では勝てない。長じてからの兄弟げんかはしたことがない。父からの教訓である。

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