2007年5月4日金曜日

がんエッセイ10「貧乏一家の記念写真」

一枚の記念写真がある。
桃色の淡い地色の振袖に色とりどりの花があふれんばかりに描かれている。胸高に結んだ薄緑の帯は花菱の模様で、それにふっくらとした鹿の子絞りの帯揚。清楚に合わせられた胸元にはお祝いの金色の半襟がのぞいている。
背もたれのある椅子に浅く腰をかけて、足元にゆったりと振袖を流して娘は座っている。緊張した面持ちの中に成人した誇らしさが少しだけ表れている。
娘の後ろに私と息子が並んで立っている。
私と息子の姿は娘の晴れやかさとは対照的にちょっと笑える。息子は高校三年生で髪形だけは寸分の乱れもなくムースで固めてばっちりと決まっている。しかし、その下からがお粗末。顔のつくりは致し方ないとしても、私がひそかにブラッシングしておいた高校の制服は、前の日に脱ぎっぱなしにしてあったようでシワにまみれている。おまけに、あと三ヶ月で卒業だから我慢をしなさいと履かせておいた革靴は、つま先に小さな穴。その穴から肌色が見えていて、素足なのが良くわかる。
家族と行動を共にするのを嫌がる時期で、写真館の予約の時間が迫ってきても、なかなか支度をしてくれなかった。記念写真だから家族で撮るのよ、と追うようにして連れ出してきたものだから、やや不機嫌な顔をして姉の左後に立っている。

右後には母親である私。これもアタフタとやってきた感じ丸出しだ。一応スーツは着ているもののイヤリングはなし。ネックレスもなし。ブローチなどさらになし。腕時計なし。妙にサッパリとしていてむしろうら寂しい。おまけに写真を撮る段になって、「あら!真珠のネックレスを忘れてきた」と言ってしまったから、息子にコンコンとひじでつつかれて、「忘れてきたっていいけれど、見栄を張っているようだから言わないの」と叱られた。
真珠のネックレス、と言って見栄を張ったわけではない。安物だけれども一応持っている。写真を撮る予約時間に雨が降りだして、写真館に歩いていくのは無理で、貸衣装だから汚してもいけないから、と表通りまで出てタクシーをつかまえてくることになったのだ。私一人、あわててあたふたとして、娘の長い振袖を介添人よろしく後ろから持ち上げて、やっとタクシーに乗り込んだのだ。最後に身につけようとした真珠のネックレスを鏡台の上に忘れた。

後日、出来上がった写真を三人でじーと見て、おかしさがこみ上げてきた。
まず息子が言った。
「ハハハハ、貧乏一家の記念写真みたいだ。ハハハハ、姉ちゃん一人きれいだけど、俺と母さんはみすぼらしい」
「ほんとだ、お母さんは何も飾り物がなくて寒そうに見えるね。ねぇ見て見て、あんたの服はシワくちゃで、この靴の穴は何!」、と姉。
「せっかくの成人式の記念写真なのにね」
と私も言いつつ、本当に貧乏一家丸出しのような記念写真に、三人で涙が出るほど笑ってしまった。……けれど、本当のことを言えば私の涙は少しの嬉しさが混ざったものだった。

せめて上の娘が成人式を迎える日までは生きていたい。切実にそう思いながらの入院だった。
病室の窓を大きな雲や小さな雲が行き過ぎた。私は、次に大きな雲が来たら、このがん病棟を出ていくことができる、と賭けた。そんなときに限って小さな雲がたて続けにやってくる。私は大きな雲がやってくるまで執拗に賭けをやり直した。面会時間が近づくと、一番初めにやってくる人が男の人だったら私はがんに勝つことができると決め、運良くそうなった日には、がんと闘っていこうと心を奮い立たせた。
私は死ぬわけにはいかなかった。子どもたちはすでに父親と死別をしていて頼みの保護者は私一人。私はただひたすらに、せめて上の娘が成人式を迎えて世の中に出て行くまでは見届けさせて欲しい、と願った。
―――***―――
おかげさまで夢にまで見た娘の成人式を迎えることができた。
貧乏一家と言われようとも、我が家にとってはとても輝かしい記念写真も撮れた。

ありがたいことであるが、人間は仕様のないものなのか、命永らえた母は今、ちょっと欲を張っている。子どもたちが20代の後半に入ってきたので私は今年の初めに主婦業卒業宣言をした。大人ばかりの家族の共同生活であるのだから、できる範囲での家事分担を図るようにした。引き続いて今年の年末には、子育て卒業宣言もして、晴れて自由の身になって青春よ再び(たとえくたびれた青春でも)、ともくろんでいたのだが、どうやらこちらのほう上手く行かないような雲行きである。息子は社会人になっているがもう一度専門学校に行って学びたいことが出来たそうで、来春からまた学生に戻るからよろしくと先手を打たれて頭を下げられた。娘のほうは降るような縁談……もなくパラサイトシングルスをしている。
貧乏一家の記念写真の頃の必死さに比べれば、三人で仲良く笑い合う日々幸せの今に感謝はしているが、成人式の写真がセピア色にならない前にどこかで子育て卒業宣言をしなければならない。
私の心中は複雑。

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