がんエッセイ12「仕切りなおして」
私ががんに罹患した年の冬、息子は中学三年生で私立高校に合格したばかりのところだった。担任の先生は、我が家が母子家庭の上に、さらに母親が病気になってしまったのを気遣ってか「今からならまだ都立高校に間に合います」、と言ってくれたが、そのまま私立高校進学でいいです、と私は明言をした。私の病気で息子の進路が変わるようなことはしたくなかった。私はがんの治療に入った。中学校の卒業式には出てやりたいと思ったが叶わなかった。
私が入院した病院に、息子は一度も訪ねてこなかった。電話は時折かかってきたが私の病状については何も問わず、いつも自分が訊きたいことばかりだった。「あのサァ訊いておきたいんだけど……」で始まる彼の話は、今すぐに訊いておかなければならない内容ではなかったが、それだけに、訊いておきたいという前置きの言葉が彼の心の中を表しているようだった。
切なかったが、お母さんは死なないから大丈夫とも、生きて帰れなかったときのために何か言わねばという気持ちも特になく、用件が終わると、互いに切るのをためらう時間がいつもよりほんの少しだけ多いような、そんな距離にいた。高校の入学式には何とか行ってやりたいと思った。
★
看護師が自分の腕時計を見ながら調節をしていった点滴の、最後の一しずくが終わった。架台にぶら下がっていた透明パックが、患者名ゆはらきみこ、と書かれた箇所で折れ曲がっていた。
時計を見たら8時だった。ナースコールを押して点滴が終了したことを知らせた。やがて看護師が処置台をガラガラ引っ張ってやってきて、透明パックにさし込んであった針を抜いてルートを無造作に束ねた。それから私のベッドにかがみこんで、私のパジャマの前ボタンをあけた。右乳房の少し上に当ててあるガーゼをゆっくりはがして、中心静脈に埋め込まれてある点滴用の針の周辺をアルコールで丁寧に拭いて、その上に密封パッチを貼ってくれた。
「針が埋め込まれているから、胸のところを押さないように気をつけてね。えぇと、3時間くらいの外出よね」看護師が看護記録をみながら言った。
病院の前からタクシーに乗って「水道橋」と告げた。治療のために丸坊主になっている頭にかつらをかぶり、ウイルス感染を防ぐためにマスクを二重にした。前日に娘が届けてくれたスーツは健康なときのもので、今ではどこもかしこもゆるゆるとして落ち着けなかった。体もだるかった。
タクシーは白山通りを下って一直線の道を走っていた。街の景色が流れていく。幹線道路と交差しているわき道のところどころに、桜の淡い霞が見えた。
★
式が始まるまであと少しだった。受付の脇に思いがけず息子が立っていた。しばらく見ない間に背が伸びたような気がした。息子はちらりと私を見たがそのまま自分が誘導する形で体育館に向かった。私に保護者席を示して、自分は決められたクラスの席に着いた。入学式は思っていたより早く終わった。校庭に出て記念写真撮影や教科書の販売で息子について歩いたが、疲労感が強く、私は途中で腰を降ろした。息子は、胸に埋め込んである針は大丈夫なの? と訊いた。胸に埋め込んだ針は当初の施術で、動脈をかすって肺に穴を開けるという医療事故を起こしていたので、余計に心配になったようだった。大丈夫よ、ちゃんと入っているから、私は胸の上を押さえて答えた。
再びタクシーで病院に戻った私は、とてつもない疲労感の中で発熱をしたが、久しぶりに見た息子の姿が嬉しくって気分は良かった。
★
息子はそのあと大学を卒業して社会人になった。私は罹患から12年が経って、元がん患者と言えるような立場に来た。
先日息子が友人とお酒を飲んで深夜帰宅をして、私の枕元に来て「母ちゃん」と呼んだ。明日では駄目?と言ったら、謝りたいことがあるから今がいいという。
「憤りでいっぱいで、家の壁を何度もたたいていた。俺はまだ中学生だったから、母ちゃんが死ぬかもしれないと思うと怖くて。死ぬかもしれない母ちゃんの姿が可愛そうで、どうしても見られなくて、病院に見舞いに行かれなかったんだ。上手く言えないけど何か理不尽なものに対して怒りを感じていた。母ちゃんは頑張ってきたのに、その母ちゃんに、がんがやってくるなんて俺は許せなくて。どうしても見舞いにいけなかった。このことはずっと心に引っかかっていて、一度謝りたかった」。
子どもは非力な存在で、環境を何一つ選ぶことなく生まれてくる。その与えられた環境の中で、雑多な感情を一つ一つ思いなおして仕切りなおして子どもは成長をしていかなければならない。
息子は小学生のときに父親の死に出合い、中学生で母親のがんに出合い、子供だけで取り残される恐怖や、他所と比べた理不尽さや、それゆえの憤りなど、心の中の葛藤がたくさんあったと思う。それなのに、それらをやり過ごしながら、よくぞ成人をしてくれたものだと、親の私の方が感謝したい気持ちでいるよ、有難うね、と息子には伝えた。
★
3月22日の読売新聞朝刊の一面に「2500m深海底に酸素も有機物も不要の原始地球の生命」という見出しの記事が載っていた。2面のミニ辞典には、原始生命とは地球誕生後に酸素もない極限環境下ではじめて生まれた生命、とある。発見された細菌群は普通の細菌と違って核を持たず細胞膜の中に最低限の遺伝情報だけを有する単純な構造をしていた、とあった。
38億年前の生命誕生から、時の環境にあうように一つ一つの仕組みが仕切りなおされて、たくさんの種の命がつながってきている。私もその命をつないでいく一人である。一つ一つを思いなおしながら、仕切りなおしながら、大事な命を引っさげて今後も生きていきたいと思う。
私が入院した病院に、息子は一度も訪ねてこなかった。電話は時折かかってきたが私の病状については何も問わず、いつも自分が訊きたいことばかりだった。「あのサァ訊いておきたいんだけど……」で始まる彼の話は、今すぐに訊いておかなければならない内容ではなかったが、それだけに、訊いておきたいという前置きの言葉が彼の心の中を表しているようだった。
切なかったが、お母さんは死なないから大丈夫とも、生きて帰れなかったときのために何か言わねばという気持ちも特になく、用件が終わると、互いに切るのをためらう時間がいつもよりほんの少しだけ多いような、そんな距離にいた。高校の入学式には何とか行ってやりたいと思った。
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看護師が自分の腕時計を見ながら調節をしていった点滴の、最後の一しずくが終わった。架台にぶら下がっていた透明パックが、患者名ゆはらきみこ、と書かれた箇所で折れ曲がっていた。
時計を見たら8時だった。ナースコールを押して点滴が終了したことを知らせた。やがて看護師が処置台をガラガラ引っ張ってやってきて、透明パックにさし込んであった針を抜いてルートを無造作に束ねた。それから私のベッドにかがみこんで、私のパジャマの前ボタンをあけた。右乳房の少し上に当ててあるガーゼをゆっくりはがして、中心静脈に埋め込まれてある点滴用の針の周辺をアルコールで丁寧に拭いて、その上に密封パッチを貼ってくれた。
「針が埋め込まれているから、胸のところを押さないように気をつけてね。えぇと、3時間くらいの外出よね」看護師が看護記録をみながら言った。
病院の前からタクシーに乗って「水道橋」と告げた。治療のために丸坊主になっている頭にかつらをかぶり、ウイルス感染を防ぐためにマスクを二重にした。前日に娘が届けてくれたスーツは健康なときのもので、今ではどこもかしこもゆるゆるとして落ち着けなかった。体もだるかった。
タクシーは白山通りを下って一直線の道を走っていた。街の景色が流れていく。幹線道路と交差しているわき道のところどころに、桜の淡い霞が見えた。
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式が始まるまであと少しだった。受付の脇に思いがけず息子が立っていた。しばらく見ない間に背が伸びたような気がした。息子はちらりと私を見たがそのまま自分が誘導する形で体育館に向かった。私に保護者席を示して、自分は決められたクラスの席に着いた。入学式は思っていたより早く終わった。校庭に出て記念写真撮影や教科書の販売で息子について歩いたが、疲労感が強く、私は途中で腰を降ろした。息子は、胸に埋め込んである針は大丈夫なの? と訊いた。胸に埋め込んだ針は当初の施術で、動脈をかすって肺に穴を開けるという医療事故を起こしていたので、余計に心配になったようだった。大丈夫よ、ちゃんと入っているから、私は胸の上を押さえて答えた。
再びタクシーで病院に戻った私は、とてつもない疲労感の中で発熱をしたが、久しぶりに見た息子の姿が嬉しくって気分は良かった。
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息子はそのあと大学を卒業して社会人になった。私は罹患から12年が経って、元がん患者と言えるような立場に来た。
先日息子が友人とお酒を飲んで深夜帰宅をして、私の枕元に来て「母ちゃん」と呼んだ。明日では駄目?と言ったら、謝りたいことがあるから今がいいという。
「憤りでいっぱいで、家の壁を何度もたたいていた。俺はまだ中学生だったから、母ちゃんが死ぬかもしれないと思うと怖くて。死ぬかもしれない母ちゃんの姿が可愛そうで、どうしても見られなくて、病院に見舞いに行かれなかったんだ。上手く言えないけど何か理不尽なものに対して怒りを感じていた。母ちゃんは頑張ってきたのに、その母ちゃんに、がんがやってくるなんて俺は許せなくて。どうしても見舞いにいけなかった。このことはずっと心に引っかかっていて、一度謝りたかった」。
子どもは非力な存在で、環境を何一つ選ぶことなく生まれてくる。その与えられた環境の中で、雑多な感情を一つ一つ思いなおして仕切りなおして子どもは成長をしていかなければならない。
息子は小学生のときに父親の死に出合い、中学生で母親のがんに出合い、子供だけで取り残される恐怖や、他所と比べた理不尽さや、それゆえの憤りなど、心の中の葛藤がたくさんあったと思う。それなのに、それらをやり過ごしながら、よくぞ成人をしてくれたものだと、親の私の方が感謝したい気持ちでいるよ、有難うね、と息子には伝えた。
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3月22日の読売新聞朝刊の一面に「2500m深海底に酸素も有機物も不要の原始地球の生命」という見出しの記事が載っていた。2面のミニ辞典には、原始生命とは地球誕生後に酸素もない極限環境下ではじめて生まれた生命、とある。発見された細菌群は普通の細菌と違って核を持たず細胞膜の中に最低限の遺伝情報だけを有する単純な構造をしていた、とあった。
38億年前の生命誕生から、時の環境にあうように一つ一つの仕組みが仕切りなおされて、たくさんの種の命がつながってきている。私もその命をつないでいく一人である。一つ一つを思いなおしながら、仕切りなおしながら、大事な命を引っさげて今後も生きていきたいと思う。
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