がんエッセイ15「辻褄」
女物の浴衣を縫うとき、一反の反物を折り曲げながら裁っていく。まず袖の部分として50cmの輪を二つ取る。残りは身頃の輪が二つと、それより19cm短い輪を一つ取るがこれはあとで横に切って衽(おくみ)と衿になる。背縫いをして脇縫いをして衽をつけて、袖を縫い、衿と半衿をつける。衿先はキセが2㎜くらいかかり、褄下にピッタリとそろう。裾の始末は三つ折絎けで左右の両端の部分は額縁となる。出来あがった着物を本畳みしていくと左右の衿先を合わせてそのまま裾の先がピッタリと重なる。娘の頃、向島の花柳界の着物を専門に縫う先生にお裁縫を習っていた。あぐらをかいた足の親指に反物の端を挟み、先生の運針は音もなく進んでいく。絹糸をしごく音が静かにする。何人かいる生徒が出来上がった浴衣を先生の前に持っていく。先生は辻褄が合うかをじっと見る。「きちんと合うべきものが合う、納得のいく道理や筋道は大事なんだよ」と言った先生の声を今でも覚えている。
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がんを告知されると、辺りの景色は物の見事に色を失う。積み上げてきたものが崩れていく音がする。見た目の体は普通なのに終わる命。納得が出来ない。何かの間違いだ。でも、慣れ親しんだ人々や環境から離脱していこうとしている自分の後姿はなぜ?死への畏怖。どこからともなく悔しさが沸き起こり、それはやがて憤りや怒りへと形を変える。そして健康な人々への嫉妬心。心の中で命が助かるならばと何かと取引をする。神にもすがる。疲れてあきらめて、そしてがんを受容する。
運よく治療が終了するとがん患者は再び生きるレールの上に押しやられる。果たして生きていくことができるのか。生きていかれる保障を誰にもらったらいいのか。疑心暗鬼の日々。そうだ、がんでも生きている人々はいるはずだ。どこにいるのか。その人たちが今、私の横に立って肩に優しく手を置いてくれたら、どんなに勇気が出ることだろうか。がんでも元気な人々をみたい。……私の場合はひたすらにそう思った。だから、がん罹患以後の私はがんでも元気に生きている一人として、頼まれればどこででもがんの話をしてきた。
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18年春にR市の行政のTさんからメールが入った。「今回は老人福祉施設に勤務する職員が対象です。受講される介護職の方々も、自身の死生観を確かめながら手探りのところがあります。死について直面した体験談をお聴きして、介護に役立てたいと企画しています。死に対峙した体験をお話いただけたらとお願いする次第です」。
老いから感じる死と、私ががんで感じた死とは同じなのだろうか。少し不安だったけれどもお引き受けすることにした。
講演のために原稿をまとめる。それはかさぶたを一枚ずつ薄く剥がしながら13年前の自分に戻っていく作業である。がんを告知した医師の唇と、辺りの景色が一瞬にして色を失った情景がよみがえる。入院中に連れ出してもらった桜の木の下で、未来に向かう春の喜びの中に、あまりにも取り残された患者の私がいて、耐えられずに大泣きをしたことを思い出す。どこかの病室からもれてくる別れの慟哭に耳をふさいだこと……死に直面した当時を思い返すのは、思ったよりも辛い作業になるが、それでも私は、講演の依頼があると原稿をまとめて出かける。えらいという気持は微塵もない。生かしてもらった御礼に伝えなければならないという気持ちがある。そしてまた伝えることによって、私もがん以後の自分を、その都度に確かめながら生きてこられた気もするのだ。
老人の死への気持ちを少しでも理解したいという介護職の方々への講演は初めてである。介護職の方々は若くて病気でもないゆえに死へのイメージは<怖い>が圧倒的に多かった。彼等が日々に向き合っている老人たちの持っている死のイメージは、<寂しい>ということだとお聞きした。死をどうとらえたらいいのかは、個々の問題なので講演での結論は出なかったが、私は壇上で<死を怖れずに寂しがらずに、なおかつ納得する>ということはどういうことなのだろうか、と思った。
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がんを告知された13年前。死にたくないと思ったのは、もちろん子どもも小さかったし自分もまだ若かったし、やり残したこともいっぱいあったから、突然の命の終わりを突きつけられたことは哀しかった。哀しいことが過ぎると、悔しかった。夫の死後、普通の二親そろったのと同じ状況で子どもを育てたく、夢中で働いていた。通常の仕事のあとに証券会社へアルバイトにも行った。交通費を惜しみ、雨の日も傘をさして自転車で行った。夫に守られて優雅に暮らす友人たちとは距離を置いた。置かざるを得なかった。
やがて私はがんになった。文句ひとつ言わずに一所懸命真面目に働いた私ががんになって死んでいこうとしていた。それまで生きてきた中で私は働くばかりで、まだ十分にゆったり過ごす時間を持ったことがないのだった。それなのに死んでいこうとしていた。辻褄が合わないではないか。私は肩を丸めて自分を抱きしめてやった。がんがもし治ったら、遊べなかった時間を取り戻そう。ゆったりとした思い通りの自分優先の時間を過ごすそう。もし治ったら、もし治ったら。
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がん以後、意識して自分優先で好きなことをしてきた。辻褄も間尺も合わせられたと思う。不思議なことに、死にゆくことの怖れも寂しさも今は薄らいでいる。
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がんを告知されると、辺りの景色は物の見事に色を失う。積み上げてきたものが崩れていく音がする。見た目の体は普通なのに終わる命。納得が出来ない。何かの間違いだ。でも、慣れ親しんだ人々や環境から離脱していこうとしている自分の後姿はなぜ?死への畏怖。どこからともなく悔しさが沸き起こり、それはやがて憤りや怒りへと形を変える。そして健康な人々への嫉妬心。心の中で命が助かるならばと何かと取引をする。神にもすがる。疲れてあきらめて、そしてがんを受容する。
運よく治療が終了するとがん患者は再び生きるレールの上に押しやられる。果たして生きていくことができるのか。生きていかれる保障を誰にもらったらいいのか。疑心暗鬼の日々。そうだ、がんでも生きている人々はいるはずだ。どこにいるのか。その人たちが今、私の横に立って肩に優しく手を置いてくれたら、どんなに勇気が出ることだろうか。がんでも元気な人々をみたい。……私の場合はひたすらにそう思った。だから、がん罹患以後の私はがんでも元気に生きている一人として、頼まれればどこででもがんの話をしてきた。
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18年春にR市の行政のTさんからメールが入った。「今回は老人福祉施設に勤務する職員が対象です。受講される介護職の方々も、自身の死生観を確かめながら手探りのところがあります。死について直面した体験談をお聴きして、介護に役立てたいと企画しています。死に対峙した体験をお話いただけたらとお願いする次第です」。
老いから感じる死と、私ががんで感じた死とは同じなのだろうか。少し不安だったけれどもお引き受けすることにした。
講演のために原稿をまとめる。それはかさぶたを一枚ずつ薄く剥がしながら13年前の自分に戻っていく作業である。がんを告知した医師の唇と、辺りの景色が一瞬にして色を失った情景がよみがえる。入院中に連れ出してもらった桜の木の下で、未来に向かう春の喜びの中に、あまりにも取り残された患者の私がいて、耐えられずに大泣きをしたことを思い出す。どこかの病室からもれてくる別れの慟哭に耳をふさいだこと……死に直面した当時を思い返すのは、思ったよりも辛い作業になるが、それでも私は、講演の依頼があると原稿をまとめて出かける。えらいという気持は微塵もない。生かしてもらった御礼に伝えなければならないという気持ちがある。そしてまた伝えることによって、私もがん以後の自分を、その都度に確かめながら生きてこられた気もするのだ。
老人の死への気持ちを少しでも理解したいという介護職の方々への講演は初めてである。介護職の方々は若くて病気でもないゆえに死へのイメージは<怖い>が圧倒的に多かった。彼等が日々に向き合っている老人たちの持っている死のイメージは、<寂しい>ということだとお聞きした。死をどうとらえたらいいのかは、個々の問題なので講演での結論は出なかったが、私は壇上で<死を怖れずに寂しがらずに、なおかつ納得する>ということはどういうことなのだろうか、と思った。
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がんを告知された13年前。死にたくないと思ったのは、もちろん子どもも小さかったし自分もまだ若かったし、やり残したこともいっぱいあったから、突然の命の終わりを突きつけられたことは哀しかった。哀しいことが過ぎると、悔しかった。夫の死後、普通の二親そろったのと同じ状況で子どもを育てたく、夢中で働いていた。通常の仕事のあとに証券会社へアルバイトにも行った。交通費を惜しみ、雨の日も傘をさして自転車で行った。夫に守られて優雅に暮らす友人たちとは距離を置いた。置かざるを得なかった。
やがて私はがんになった。文句ひとつ言わずに一所懸命真面目に働いた私ががんになって死んでいこうとしていた。それまで生きてきた中で私は働くばかりで、まだ十分にゆったり過ごす時間を持ったことがないのだった。それなのに死んでいこうとしていた。辻褄が合わないではないか。私は肩を丸めて自分を抱きしめてやった。がんがもし治ったら、遊べなかった時間を取り戻そう。ゆったりとした思い通りの自分優先の時間を過ごすそう。もし治ったら、もし治ったら。
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がん以後、意識して自分優先で好きなことをしてきた。辻褄も間尺も合わせられたと思う。不思議なことに、死にゆくことの怖れも寂しさも今は薄らいでいる。
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