2007年5月5日土曜日

がんエッセイ17「風信子」

木曜日のエッセイ第135回 「風信子」
風は、ツクエかまえの中にチョンが一つと虫が入る。ツクエかまえとチョンは【凡】で、ふう・ぼん、と読む。【凡】は風をはらむ帆の象形である。【虫】は風雲に乗る龍の意味があって、龍が空を満遍なく行き来して起こるものが【風】ということなのだろう。風は熟語となって勢いや様子、しきたりや慣習、教えや導き、速さや風景、病気なども表す。

向かい風に自転車を一所懸命に漕いだ。肩から下げたバックには、下総中山の法華経寺で撒かれた節分の福豆が入っている。数少ない福豆なのに私をめがけてまっすぐに飛んできたありがたい福豆なのだ。バックの中にはもう一つ大事なものが入っている。CODIVAのチョコレート。バレンタィンデーが過ぎた今日でも, CODIVAゆえに意味がある。福豆と一緒にKさんに渡して、ホワイトデーのお返しをもらうのだ。
向かい風に自転車を漕ぐ。前方に橋。角度が急なので若者のようにお尻を挙げて漕ぐ。太ももが痛くなるほど漕ぐ。向かい風に負けたくない。橋の中央に来た。汐の香りがした。遠く海の方角には空があけていて、人の生死にかかわらぬ風景が広がっている。腹がたつ。目の隅に置く。橋を下ると今度はビル風。負けないで漕ぐ。巻き上がる風を蹴散らして漕ぐ。再び向かい風。ひたすら漕ぐ。やがて広小路の混雑。人の流れに意地を通すように自転車に乗ったままで通過する。天神坂下を右に折れて、旧岩崎庭園の椿の生垣に沿いながら道なりに坂を上っていく。しばらく行くと右側にやっと、めざす東大病院が見えてきた。

坂道を登りきったところに自転車を止めて、東大病院の正面玄関を入った。受付で病室訪問の可否を確認してもらう。OKとの事。Kさんにお会いするのは一年半ぶりである。「元気そう。移植患者じゃないみたい。はい福豆!それからチョコ。義理(笑)。それから落語本」「有難う。これ病状。それから骨髄移植に向かう今の気持ち」彼はA4二枚に書かれた文章を私にくれる。「用意がいい優秀患者ね」「でしょ」
落語の話や幼い頃の話に盛り上がり、途中で気がついて声を沈める。点滴を取替えに来た看護師さんに「御気分は?」と訊かれてKさんは私を指さして「ドキドキ!」との冗談も。看護師さんはあらあら、と笑って出て行かれた。移植前治療で思ったほどの吐き気やトラブルがなかったので良かったこと、移植前で気が高ぶっていたので饒舌になってしまってごめんなさい、とあとで謝りのメールが届いた。

骨髄移植は骨髄の中に多くある「造血幹細胞」を白血球の型(HLA)に合う人から戴くことである。提供する側は無償の行為で、事前準備に多くの時間を要する。病気がないかの全身検査はもちろんの事、提供までの気持ちを支えてくれるコーディネーターもつけられる。移植希望の患者さんとHLAが適合すると、全身麻酔で採取するために4泊5日の入院生活となる。骨髄提供日時は後日いろいろなことが想定されるので、口外してはならないようである。
提供される患者さんのほうは移植日が決定すると、自身のがん化した細胞を極力たたくために、抗がん剤治療を開始して、移植される健康な造血幹細胞が定着しやすいように体の状態を整えていく。移植は点滴によって行われる。移植後に、提供していただいた方に手紙を書けるのも二通までと決まっているそうである。
私が見舞ったKさんは移植を六日後に控えた患者さんである。初期治療で寛解に至り職場復帰をしていた彼から、再発しましたので骨髄移植に向かっています、とメールが来たのは昨年の晩秋だった。冗談の混じった文面であったが、罹患体験の私としては軽口をたたく彼の心情が少しはわかる気がした。骨髄移植患者会や、治療情報が入手できる患者会など、私の知っている限りの情報をメール送信した。
年が明けてから東大病院で移植を受けることに決まった、とメールが来た。移植はHLAが適合するだけで赤血球のほうは無視されるから、激しい下痢、高熱、つばも飲み込めない口の中の炎症など、激しい拒絶反応が起こる。
患者さんの戦いが始まる。新しい命の誕生だから向かって乗り越えて行く、とKさんは言う。

一滴の血液があれば薬の効きやすさについて30分以内に遺伝子の型から診断する手法を理化学研究所などの研究グループが開発をした、と2月の新聞に載った。抗がん剤が効く遺伝子型を持つ患者と、効果が期待できずに副作用の懸念だけある遺伝子型の患者を正確に判別できたとある。抗がん剤に耐性ができてしまう場合や、急ぎ治療しなければ命が危ない場合など、効くのか効かないのかわからない治療で無駄な日数を過ごさないで済むのだ。医学に後退はない。日々新しい風が吹く。とにかく移植が成功してくれればと祈る。

移植7日目ですとメールがきた。白血球数が200でふらふらしています。口内炎防止のために良い方法を思いつきました。特許が取れそうです。下痢は多分これからです、とまたKさんらしい冗談交じりのメールだったが、無菌室にいる重篤さをメールから読み取る。
Kさんが無菌室から出てきたら、風信子を持ってお見舞いに行こうと思っている。風信子と書いてヒヤシンス。球根性多年草で耐寒性、ギリシャ神話の美青年ヒュアキントスからの命名で大量の血から生まれた花とされる。鉢植えは根がある=寝付くと解釈されてゴロが悪いとお見舞い品には不適切だが、移植のKさんに風信子は最適であるとおもう。向かい風の中の新しい血! 根づいてKさんの生を後押しできる追い風になってほしい。

父エッセイ13「父の遺言」

「父の遺言」(第114回 20050714)
故二子山親方の相続や遺言騒動がワイドショーをにぎわせている。
大事な書類の入った黒革のかばんが消えた。死期間近い病室に誰と誰がいたのか。図まで描きながら、口から泡を吹いて喋りまくるレポーターの横顔が、地獄の釜に嬉々として群がる赤鬼たちのようにも見えて、おどろおどろしい。親からの遺言。縁あって親子として暮した長い歳月の中から受け取るものも有る。
              ★
二十歳のときに母の弟にあたる叔父からお見合いの話があった。叔父の家は大きな傘屋さんを営んでいて、そこに出入りしている26歳の営業マンが、なかなかに誠実な人なのでどうかということだった。どうする? と父が私に訊いた。私は「まだいい」と言った。保育者になる学校を卒業したものの、家業の大衆食堂の人手が足りずに店を手伝っていた長女の私。その労働力を重宝もしていた父は「そうか」、と言っただけだった。
二年が過ぎた。
叔父がふたたび縁談を持ってきた。「以前の人なんだけど。どお? 将来は独立したいから商売屋さんの娘さんを探しているそうだけど、逢ってみない? 」
三年越しの縁談である。
営団地下鉄(現東京メトロ)「人形町」の出口を、トントントンと駆け上っていったら叔父とYさんが立っていた。Yさんは上背のある男前で目に張りがあって声が柔らかくてとても素敵な人であった。
私は自慢ではないが不細工な顔を持って生れ落ちた。美男子にこの私ではつりあわない。これはだめだな、と思った。それで私は断わられてもともとの感じで、取り繕うことなく自然に振舞った。敬語と静かな声で話すYさんを横目に、私はよく笑いよく食べ、上品ぶらずに普段どおりにしゃべった。そして食後のコーヒーのあと、おおよそお見合いらしくもないとどめで「かっちゃん(私たちは叔父をそう呼んでいた)、ちょっとお手洗いに行きたい」と言いつつ、Yさんに会釈をして、前を横切った。
「明るさと快活さと、物怖じしない元気さが良い」という返事が、かっちゃん叔父さんのところに来て、私たちは付き合うようになった。人並みなデートも人並みな長電話もして半年後に式を挙げた。一年後には商売を独立させて、子供が二人生まれて、自営業を拡大した。社員が増え、パートさんが増えて軌道に乗った矢先の夫の早逝。夫42歳、私36歳、結婚生活13年と一ヶ月だった。
葬儀が終わり、8歳と10歳の子供を抱えた私に、「何があっても笑っていないさい。そのうちにきっといい事がやってくる」と父は言った。
               ★
人生の前半に悪いことが重なる運命を持って生まれてきたのか、36歳で夫と死別した後に、引き続いて私はがんを罹患している。がんは夫との死別後の生活が何とか立ち直り、笑顔も板についてきた頃だったから、神様は非情なことをなさると気落ちした。辛い治療や死の世界に連れていかれそうな恐怖、それに片親さえ亡くしてしまうかもしれない子どもたちと、生まれてきた甲斐さえないような自分自身への憐憫に、うなだれるばかりだった。
その後、笑うことなどもうないと思っていたけれども、人生はなかなかにして捨てたものではなかった。
がん治療が落ちついて日常生活に戻ったとき、あとは再発をどう防いでいくかという模索になった。生き方の基本から直していかなければ、がんはまた再発するだろう。
私なりに考えた。がんの原因であるストレスによる免疫異常をクリヤーしていくには、笑いの効用でキラー細胞を増殖させて、そやつにがん化した細胞を喰いまくってもらって免疫力を高めていくほかに手はないだろうと。そして、ストレスを回避するためには、とことんマイペースの行動をしようと。
よく笑うこと、ストレスからサッサカ逃げることを徹底的に自分に義務付けた。楽しい人とだけ付きあう。落語に行く。面白い話がなければ自分から探しにいく。うるさがられようとも大きな声でおなかの底から笑う。おかげさまでこの年まで来た。不細工なのは昔から変わっていないが、まあともかく笑顔をいつも絶やさない女にはなれたと思う。
             ★
そういえば、夫が亡くなったときに父は「何があっても笑っていないさい。そのうちにはきっといい事がやってくる」と言ってくれたが、その昔、夫とのお見合いに出かける私の背にも父は同じような言葉を投げかけたのだった。
「おまえは器量があまりよくないから、笑っていなさい」と。
年頃の娘によくもずばりと辛辣なことを言えたものだが、不細工を唯一カバーできるのは<笑顔>であると判断して、娘の人生を一歩前に押しやろうとしてくれた父の判断は正しかったことになる。
過ぎて来た人生において、いついかなるときもすぐに笑えたわけではないが、笑おうとした努力に対しては父も冥界から拍手を送ってくれるのではないかと思う。
「笑っていなさい」の言葉は、私の中で父の遺言として生きている。この言葉は心の中に住まわせてあるので黒革のかばんも要らず、相続税もかからない。ありがたい。

父エッセイ12「パチンコのとどめ」

父と弟は男湯の下駄箱にサンダルを入れた。私と妹は女湯の下駄箱にサンダルを互い違いに伏せて入れて下足札を取った。桶の中には石鹸とタオルと櫛とあかすりが入っている。抱えたバスタオルの中には着替えのパンツ。父と弟、私と妹が男湯と女湯の引き戸を同時に開ける。番台のおばさんが「みんな一緒ね。大人が一人で23円、子どもが三人で24円、シャンプー代が10円。えーと、えーと」と計算をしていく。父が100円玉を出す。
入り口の脇に積んである目の粗い大きな籠を二つ持ってきて床の上に置く。小さな庭に面して木の長イスがおいてあり、近所のおばさんが裸で座ってコーヒー牛乳を飲んでいた。
妹が「お父さんコーヒー牛乳代を持ってきたかな」と言う。「持ってきたでしょ。あとで番台のおばさんに聞いてもらおう」と私が言う。銭湯にはお湯から出てきた赤ちゃんを引き取って面倒をみてくれるおばさんが働いていて、「すみません!お願いします」というお母さんの声で駆け寄って洗い上げられた赤ちゃんを受け取り、小さなベッドに寝かせて、タオルで拭いた後におしめとおしめカバーをつけている。備え付けの天花粉をあごの下から上半身一面にぬられて真っ白になった赤ちゃん数人が足をバタバタさせている。
浴場内で洗ったり湯船に沈んだりしていると、やがて男湯のほうから「きみちゃん!出るぞぉ~!」と父の声がした。
「うん、私たちも出る!」と妹が大声で答えた。使い終わった木の桶を伏せて積み重ねて、ぬれたタオルをきっちり絞ってまず体を拭き、それから自分の籠のところに歩いていく。
番台のおばさんにコーヒーを飲んでもいいかと父に聞いてもらう。父がいいよと答えているようだ。ついでに妹が男湯にいる父の方に行きたいと言う。番台の前の戸をあけてもらってすばやく妹を押し込む。やがて父と弟と妹ががやがやと出て行く気配。番台のおばさんが卓球場に行くの?それともこれ?と親指を手の内側に曲げたり伸ばしたりした。

銭湯のすぐ近くにパチンコ屋さんがあった。昭和35.6年。私がまだ小学生の頃だった東京の下町。銭湯に行くのは三日に一度くらいだったように思う。家業の大衆食堂の定休日と銭湯に行く日が重なると父と一緒によくパチンコ屋さんに行った。当時、風紀が悪いとか清く正しく子供を育てましょうとかの厳密な区分は下町にはあまりなかったようで、ここから先は駄目とか、いいとか、大人社会に適当に子供が混ざったり外れたりしていたような感じがある。
パチンコは立ったまま打つ。もちろん自動ではなく親指で一つ一つはじくタイプである。父は玉が出れば緑というタバコと換える。時折それにキャラメルが混ざる。父の台にたまる玉を父が分けてくれる。弟と妹と私と三人並んで指ではじいていく。台の中側では玉を足していくお兄さんが動いている。増えたり減ったりしていた父の玉が本当に無くなってしまうと「せっかく出始めたのにお前たちが取ってしまうからなぁ」と父が言う。足元に置いてあった銭湯の道具を持ってみんなで一緒に家に帰る。
母と祖母はふるさとの言葉が抜け切れずに名古屋弁で「やっぱりあかんぎゃ、子供を連れとってはパチンコになれせんでしょう」と言う。

結婚をして、夫と死別をした。当時長女が10歳、長男が8歳だった。長男を男として育てる見本をどうしたらいいのか悩んだ。私がいくら威勢良く乱暴に育てても男の考え方と女の考え方はその性差からくる基本的なところでもう違っているであろう、と悩んだ。
それで、まだ存命だった父とそれから子育てを我が家と同じような段階で進行中の弟に、「男の目」としての見本や考えを学ばせてもらいながらなるべく意見を聞いた。その上、もし夫が生きていたらさせたであろうと思えることに対しては率先して息子を連れまわした。魚釣り、キャッチボール、笑われるかもしれないけれど、パチンコにも。長男を男らしく育てるのに必死だった。
京成高砂に夫のお墓がある。その駅前には二軒のパチンコ屋さんがあって、お墓参りのあとによく息子を連れて行った。小学生だった時も、中学生だった時も。夫が生きていたら息子と仲良く行ったかもしれないパチンコ屋さんへ私が入るのは、私にとっては子育ての一環であったから恥ずかしいこともなかった。
息子が高校生になってからはめったにお墓参りにも付いてこなくなったのでパチンコ屋さんへの同行習慣もやがてなくなった。

この年の暮れにお寺さんへ挨拶に出かけた。お墓を掃除してお酒とお花を供えて拝んだ。そのあとは高砂の駅のすぐ脇にあるイトーヨーカドーで買い物をする。パチンコに息子を連れて行く必要がなくなってからの私の墓参のコースである。
けれどもこの日は何か妙に胸騒ぎがした。パチンコ玉がジャラジャラと出る予感で頭がいっぱいになっていた。10年ぶりに足が向いた。
店内に入る。なるべく人のいないところに座った。ムムムゥお金を入れる場所がない。係りの人がカードでやる機械ですよ、と言う。お金はあちら、と指差された台に移る。500円玉を入れたら自分が座っている台の隣に玉が流れ出た。あわてて席を移動する。父が頂点の釘の少し左側に当たるといいぞと言っていた事を思い出す。
打ち出してすぐに台の周囲の赤ランプが派手に点滅した。数字の両サイドが7と7になった。その真ん中に猪八戒のような豚がいろいろな数字を置いては潰してまた置いては潰している。最後に置かれた数字は7だった。777!係りの人が飛んできた。この間わずか5分。なんだか玉がどんどん入る。下からどんどん出る。あふれそうになってもどうやって大きな箱に入れたらいいのかわからない。
後ろに立ってみていたおばあさんが「初めてなの?いいわねぇ。これって150回も開くやつなのよ。いいわねぇ」と言いながらレバーを横に押して玉が下の箱に入るようにしてくれた。玉が出続ける。箱がいっぱいになった。やがて派手についていた赤いランプが消えた。私は予感が当たったことに感動していた。

男の子を育てるためにパチンコにも連れていっていた母親だった私。必死だったあの頃が何だか懐かしい。27歳になっている息子に今日の777を報告したら「とどめが肝心だよ。ランプが消えたところでやめて正解」と説教された。息子はパチンコが嫌いだそうである。

父エッセイ11「茗荷」

夏の庭の隅に、生姜の葉を少し大振りにしたような形で群れている茗荷。お父さんのような大きな葉っぱと、それを支えるお母さんのような茎の、そして、その元から愛らしく出てくる子どもの茗荷。
♪:茗荷と大葉をみじん切りにして炊きたてご飯にのせて、しょうゆをかけて食す。♪:お酢を火にかけて沸騰する間際に砂糖を多めに入れて甘酢を作る。冷めたところに、縦割りにした人参とまるごとの新生姜と茗荷を漬け込む。魚料理の添え物になくてはならない一品になる。その他、薬味、てんぷら、ぬか漬け、もちろん吸い物の具にも良い。卵でとじるとさらに良い。

私が子どもの頃に住んでいたのは、濃尾平野の真ん中に位置する農村地帯だった。その戸数100軒あまり。私の家の脇は細い道で、村のはずれにある安楽寺に通じていた。寺には集会所となる別棟がついていて、そこでは夜になると、大人たちの寄り合いや子ども会の紙芝居やお月見などが催されていた。
今の都会の子どもの育ち方から考えると想像もつかないだろうが、漆黒の闇の夜でも、お寺の集会所に、当時は子どもたちだけで出かけていた。闇の中、ササゲの実から漂ってくる青い香り、ナス畑の葉が擦れ合うごわごわとした音、夜露を受けてかすかに湿った空気、それらを体中に感じながら、自分の足元だけを懐中電灯で照らして歩く。でこぼこの道、石ころが一つ一つ影をつけて足元を過ぎていく。お寺さんに上げて、と祖母に頼まれた三合ばかりのお米をしっかり持って、弟と手をつないでお寺の紙芝居に出かけた夜。闇の夜でもそれほど怖いと思わなかった子ども時代。

そんな中で、見るだけでとてもこわい女の人が村の中に一人いた。その人はオキチ様と呼ばれていた。まだ若い女性で、日がな一日何かをつぶやいていた。髪はパーマをかけている様子だったがぼさぼさとしていた。目はパッチリと大きく、口は赤い紅に彩られていた。いつも長いスカートをぞろりとはいていたが、スカートの裾は片手でつままれていた。
オキチ様と目を合わせてはいけないといわれていた。目を合わせるとどこまでも追いかけてくる、と。特に子どもを追いかける。山姥が一山も二山も一瞬で越えてくるような迫力を、そのオキチ様はもっていた。子どもたちはオキチ様の家の前を通るとき、息を吸い込んでから猛ダッシュをするのが常だった。

夕方、母親が木っ端(こっぱ)で風呂をたきつけていた。祖母は台所仕事をしていた。私は祖母に呼ばれて、裏の垣根の脇にある茗荷を採ってくるように言われた。人の顔が識別できるかできないかの、もうじき夜に入るその直前の夕闇。私は祖母が手渡してくれた小さなザルを持って、茗荷の葉が茂るところにしゃがみこんだ。茎の脇、土の中からわずかに顔を出している茗荷の子どもを一つ二つ抜いた。抜く感触が手に伝わる。土が少しはねる。隣の茎の根元を探る。
茗荷の葉がかすかに揺れた。何気なく葉と葉のすき間を見た。葉の向こうにぬれて光る獣のような黒い瞳と真っ赤な唇があった。葉のすき間から、私の方に手が伸びた。私は声を出せずに気絶した。

茗荷は熱帯アジアを原産国とするショウガ科の食物で、春から夏に開花する。別名「鈍根草」。茗荷を食べると物忘れをすると言われる由来から来ているのか、この「鈍根草」の命名は汚名のようで少しかわいそうに思える。
釈迦の弟子の一人に、自分の名前さえ忘れてしまうという記憶力の悪い周利槃特(しゅりはんどく)という弟子がいた。釈迦が、せめて自分の名前は覚えているようにと「周利槃特」と名前を紙に書いて彼に背負わせた。周利槃特が亡くなった後、彼のお墓に生えてきた草を茗荷(名を背負う)と命名したそうである。この説話は、そのような鈍臭い人でも一心に修行すれば悟りは開ける、と続くそうであるから、物忘れの箇所のみが一人歩きをしていったことになる。
もう一つの命名説には、茗荷はショウガによく似ていて、その昔はショウガのことを男芽(オガ)と呼び、茗荷のことを女芽(メガ)と呼び分けたそうで、メガの言葉の変化がミョウガとなった、と物の本にはある。いづれにしても夏の胃弱を助けたり熱をさましたりする効用はあるので、夏には摂取しておきたい野菜である。

世にも怖いオキチ様というのは、その人の名前だとばかり思っていたが、村の大人たちが、気がふれた人のことを呼称したのだと後に解かった。オキチ様は添いたい人に添えなかったばかりか、堕胎も強要されて気がふれたのだ、と。だから子どもに対しても異常に執着するのだ、と。
気がふれるほどの恋焦がれ……そこまで激しくなくとも、微熱程度の恋ならば私にも多少の経験はある。てんぷらを揚げながら、菜ばしを使いながら、お風呂で髪を洗いながら、どんな時でもいかなる時でも、片時も、その人のことが頭から離れないことがあった。夢の中で寄り添えた日には、あまりにもの生々しさと、あまりにもの不現実さとに、夢見の喜びが深い悲しみに変わっていく、そんな朝もあった。微熱程度の恋でもこれである。
忘れなければいけないものを忘れられずに、忘れてはいけないことをあっさり忘れるような、厄介ともいえる回路を人はあわせ持つ。
茗荷の葉の向こう側。気絶寸前に見たオキチ様の双眸(そうぼう)は、年を経るごとに、私の中で深い悲しみの色に塗り替えられている。

父エッセイ10「秋刀魚」

私たち夫婦は結婚をしてすぐに、夫がそれまで勤めていた仕事の暖簾わけを許されて独立開業をした。4坪ばかりの店舗に6畳一間と小さな台所がついているだけの一軒家を借りた。トラックを買って倉庫を借りて、商売に注ぎ込むお金は際限もなく入用で経済的にはとても苦しい状態だった。買掛金の支払いが、意外な早さで毎月やってきた。売掛金は蓄えられる間もなく、すぐに仕入代金として出ていき、在庫という財産は増えているものの、帳簿上での利益がゆとりとして生活に現れず、自転車操業をしているのかと錯覚するような日々が続いていた。
父は大衆食堂を経営していたので、食物が豊富にあった。米・味噌・醤油・業務用ソース・菊川という二級のお酒やキリンレモン。魚河岸から入ったばかりの秋刀魚、鯖。八百屋物の葱、キャベツ……。
父はそれらのものを、お米だったら業務用の20キロ単位で。お酒ならケースごと。何でも大量に休日ごとに私の家に運んでくれた。父が持ちこんでくれた食料品は、我が家の経済状況の中では本当にありがたかった。
私が父親離れをしない娘だったのか、それとも、父親が単にお節介精神旺盛な性格だったのかは良くは分からないが、結婚という形で他家に出た娘であったにもかかわらず、私は長い間、父親の存在を極めて身近に感じて過ごした。

「秋刀魚の炊き込みご飯を作ったから、今から持って行く。お昼ごはんを食べないで待ってな」
父から電話があった。時計を見たら11時だった。夫は柏市までトラックに満載した製品を運ぶ仕事があったので、車が混まないお昼休みに走ろうと、その日は早昼を予定していた。
父がバスに乗ってすぐ来るのであれば早昼に間に合う。私は味噌汁を作って待っていた。父は道路が混んでいてバスがちっとも進まなかった、待たせて悪かったねぇ、と言いながら12時近くになってやっと到着して、重箱にたっぷり入っている秋刀魚の炊き込みご飯を上がり框に置いた。夫は、いつも悪いですねぇ、と父には言ったものの、あきらかな不機嫌さを私にだけ見せて、「お父さんと一緒にご飯を食べなさい」と言って、自分は食べないで配達に出て行ってしまった。
その夜、私たちは小さな諍いをした。秋刀魚の炊き込みご飯は小骨があって生臭くって嫌いだし、お義父さんが持ってきてくれるお酒は大衆食堂で出す2級酒であって、そんなもの、うまいと思って飲んだことはない。結婚をしたのだからキャベツや葱まで実家からもらうんじゃない。あげるといわれても断ればいい。お父さんは娘を嫁にやったという自覚がないのだ、と夫は言った。

姓を変えて他家に行く気持ちは、所詮、男の人にはわからない。例え好きな男に嫁ぐのだとしても、なじんだ姓から新しい姓になれるには時間がかかる。一切のものを捨てて行く覚悟もいる。一切の中にはもちろん実家での生活習慣も入る。特に食生活などは働き手の夫に、まずはあわせなければならない。
私は夫の実家から送ってくるサトイモを丸ごと辛く煮たものは大嫌いだった。大量に届いた日には悲鳴を上げた。夫はこんな美味しいものはないと私に上機嫌で勧める。朴の葉に乗せて焼く味噌も夫の好物だったが、その匂いにはなじめず、私の焼き方は下手で、焼き味噌はいつも焦げた。
実家はお酒を飲む習慣がなかったので、お酒を飲みながら長くかかる夫との食事時間もえらく無駄なような気がした。夫も我慢しているかもしれないけれど私だって慣れようとしているのだ。
その夜、手をつけられなかった夫の分の炊き込みご飯を流しに捨てた。脂の乗ったさんまの小口切りが、ぷっくらとした形でご飯の間から見えていた。私に注いでくれた父の愛情と血のつながりをも、無造作に捨てたようで切なかった。

江東区には南北に走る大きな道路が幾本かあるが、隅田川より数えて二つ目の通りを清澄通りという。清澄通りを門前仲町交差点から信号にして三つ北上すると、明治小学校脇の歩道橋に出る。その袂に、この近辺に小津安二郎の生家があったとの案内板が出ている。すぐ近くの深川一郵便局の奥に下町らしい路地風景が残っていて、地元ではその辺だろうという話である。
路地に入ると、まだ青い夏みかんの大きな樹が日陰を作っている。小さな間口の家々。少し開けられた引き戸。その間をさわさわと過ぎていく風。家の脇に吊り下げられたシュロの箒と塵取り。なぜかこの一帯だけがセピア色がかって見える。

父エッセイ9 「隅田川花火」

家庭にはそれぞれの色あいがある。舅が家長に君臨して家族全員が家来のように動き回っていたり、夫がまるっきり子供の一員の位置づけであったり、あるいはオットリしている女房が実は陰の参謀だったり……。誰がどのような役回りであろうと、ほどほどの笑顔と家族同士の助け合いが生じていれば、家庭がどのような色合いに染め上がろうと色は色である。
私が育ってきた家庭では母の存在感が薄く父ばかりが目立っていた。それは、父が何でも采配をしなければ気がすまない性格だったのか、あるいは姑同士の争いごとで離婚を経験したことを繰りかえすまいとして、家庭内のことは自分が率先して仕切っていったあげくのことだったか、あるいは、もしかしたら母そのものが、父のパートナーでいるよりも、父の庇護の元に有ることを好んだ結果だったのか……これらの要素が綯い混ぜ合わされて作られた私の生家の色合い。何色と表現したらよいのかわからないが、母親的役割の部分にすら父が勇んで登場してきた家庭は、やはりちょっと特殊な色合いだったのではなかったろうか。

父が子供たちの父兄参観にすら出没して動き回り、生活の中では姑と妻とを表舞台に出さない日常であったから、どの想い出を探っても父がにぎやかに登場してくる。下町の小さな木造家屋で大衆食堂を営んでいた。家の形は道路に面して店と調理場の入り口があるのみで、一般住宅のように玄関は無かった。来客は調理場の流し場の脇をすり抜けるように入ってきて、二階にどうぞ!ということになっていた。
高校を卒業した夏に友達が数人遊びに来た。遅れてあと一人が来るから、と調理場にいる父に告げてあった。
30分後、来客の様子が階下から伝わってきて、父が何か話している声がした。そのうちに階段の方からコツンコツンという音が響いてきた。音は段々にあがってきて、やがて引き戸が開いた。友人のY子が立っていた。ハイヒールを履いたままだった。
「どうしたの!」
私たちはY子の履いているハイヒールを指差して素っ頓狂な声を上げた。
「やっぱなぁ。おじさんに嘘をつかれた。だっておじさんは『うちは最近全てを外国式にしたから、階段は靴を履いたままで上がってもいい』って言ったんだよ」
「だって他の人の靴が下に脱いであったでしょ」「誰のも無かったよ。おじさんが隠したんだ」友達はハイヒールを抱えて階下に戻しに行った。Y子の抗議する声と父の大きな笑い声が聞こえた。

父は人寄せが好きで、面白いことが好きで、サービス精神過剰で、人の輪に入りたがり、たとえ娘や息子たちの若い友人でも、自分も仲間足りえると思っていたところがあったから、私の友人などは前述のほかにも父との想い出を共有していることが多い。父の葬儀のときは私の友人たちも大勢集まってくれて、若い層にも見送られて逝った父だった。
父が亡くなる数年前の夏――
隅田川の花火大会を真下で見たいから台東体育館の手前の野球場のフェンスの脇を陣取っている、と父から電話があった。公衆電話からで、何度も何度も仕事をしている子供たちの家庭に電話が入り、場所の詳しい説明をしてうるさかった。暑いさなかの地元の花火大会にはそれほどの食指も動かなかったが、父のやいのやいのの催促で出かけることになった。
花火会場はものすごい人出で、父が陣取った場所までたどり着くのに30分はかかった。広く取ったので誰を連れてきてもよいとのことで私の家族も友人も、それから大衆食堂に来るお客さんたちもみんな一緒だった。おまけにとても良い場所取りを証明するかのように、NHK7時のニュースのテレビカメラまでがいた。花火が上がると観覧の様子を撮るために私たちにライトが当てられた。まぶしくて花火がよく見えずみんなは手でよけたりしたが、父はカメラのほうをまっすぐに見て至極満足そうだった。
NHKの取材班が退去した後の花火は、さすがに一等地の醍醐味であった。シュルシュルシュルの音と共に一筋の光が空に登っていき、やがてドッカ~ン☆!の炸裂音と共に空一面に華が開く。次々と上げられていく音が空気を引き裂いて空のかなたで弾ける。小輪や大輪がいくつもの色を重なり合わせて空から降ってくる。枝垂れ柳は満天に広がり、見上げる観客たちの横顔まで真っ赤に染めぬいた。仕上げの連発打ち上げは人々の歓声と大拍手の坩堝の中だった。
花火が終わって、もやっていた煙雲が四方に散った。やがて何事も無かったかのような夏の夜空に戻った時、フーと父のため息を聞いた。
花火を真下で見たい、とあたかも自分のわがままのように見せかけて、炎天下の日中に陣地取りの番をしていた父。まったくもう……と言いながらも寄り集まった一族、知り合い、友人。後にも先にもあの様なダイナミックな花火は見たことがない、と今でもみんなが言う。ついでに父の想い出も語られる。
あれから何度目かの夏が来て、私たちも父の年齢にかなり近づいた。父ほどの過剰サービス精神は受け継げなかったが、それでも弟の所作や妹の考えなどに、父の色合いを鮮やかに感じとることがある。もちろん私自身の中にも。

隅田川花火大会は今週の土曜日である。梅雨もその頃には明けるだろう。厩橋と桜橋と二つの会場から打ち上げられる2万発の花火。今年はどのような彩だろうか。

父エッセイ8 「アイスクリーム」

「こんな風に、何も食べられなくなる病気になるなんて夢にも思わなかった……」。しわがれた小さな声を出す父が病院のベッドにいた。

父の胃を全摘した医師は、「すでに転移があり、再発はまぬがれず、死もそんなに遠くではないでしょう」、と家族に告知をした。
父ががんになった1985年頃の患者本人への平均的告知率は10%内外であった。10年後の1995年になって30%、1998年頃で50%となっている。(‘98年3月28日の毎日新聞朝刊より)
2000年になるとカルテ開示の流れが出て、患者本人もカルテを見ることができるようになり、がんを隠すことができなくなった。また、治療成績の向上に伴ってがんと共生をする人々が増え、さらに発症を受け入れて意欲的に闘病を続けていくことが有効であることも実証されて、その後告知率は上昇をしていく。現在、がんは慢性疾患とも言われるようになり、告知率100%の病院があることも、珍しくはなくなった。
父ががんになった15年前、一般的な告知率の低さから言えば、父に告知しなかったことは仕方ない事であったかもしれないが、父の命は父のもの、それを家族が勝手に握り締めていいはずはないと私たちは悩んだ。けれども、生きる期限を区切られた父の精神面を受け止める自信はなく、せめて父に苦痛が訪れないようにと願うのが精一杯で、悲しむ間もなく次々とやってくる現実に、アタフタと流されていくばかりだった。

CTで撮影された父の体のそこここにがんの転移の黒い影があった。特に胆嚢にできた腫瘍は父の腹の皮を破り腹部に大きな穴を開けた。そこから絶え間なく出て来る胆汁は、穴の周りの皮膚を溶かしはじめていて、ガーゼを取り替えるたびに父のうめき声が廊下まで聞こえた。
腹に開いた穴のために口から食べ物を摂ることはできない、と父には説明をしてあったが、実際は食道の下部にも転移した腫瘍があって食物の流動を妨げていた。口を湿らす程度の水分なら吐くことは無かったが、少しでも多くの水分を飲み込むと父は吐いた。
ある日、アイスクリームがどうしても食べたいと言うので、主治医に聞きにいった。「巾着のように閉じたところに物を流し込むようなものですから吐くことは間違いないでしょうが、一口くらいなら大丈夫かもしれないから、食べさせてあげてください。食べて吐くようだと患者さんも諦めがつくこともあります」。
親切なようで、それでいて非常に冷たい言葉だった。
死を徐々に受け入れていくということはこういうことなのか、と思った。
売店でアイスクリームを買って父に見せたら大喜びだった。
一口食べる。もうよそうね、と言う。もう一口くれよ、もう一口だけ、と父が言う。薄っぺらな木のへらにアイスクリームを乗せて父の口に運ぶ。美味そうにしていたのは数分のみで、父はすぐに吐いた。
以後、父は口からものを摂り入れたいとは言わなくなった。
腎臓の機能も衰えて、腎不全を起こしかけているのか意識が時折混濁するようになった。
「きみちゃん、そこにアイスクリームがあるような気がしてしょうがないんだけど、取ろうとすると無くなってしまう。あるだろう? そこに」。父の目はうつろだった。私は「あるよ。ここに。寝て起きたら食べようね」、と答えた。
父はうつらうつらと眠るようになった。
呼び寄せられた親戚が、次々と病室を訪れた。父は焦点のぼやけたような顔でやっとの思いのように言葉を口から出した。「俺は幸せだった。子供は元気で独立して家庭を持っている。子どもの幸せは親の幸せだ」。小さな声だったが、繰り返し繰り返し言った。父が生をあきらめたのだ、と私には思えた。
数日後の明け方に父の体温は徐々に下がっていった。
私を抱き上げて柚子の樹の下に連れていってくれた父の若かった手。一家を支えてくれた、がっしりとした父の手。一度も私の頭に振り上げられることのなかった父の柔らかな手。病気を治そうと点滴を受けていた頃の父の手。その手が今、冷たくなっていこうとしていた。私は自分の両手で父の手を包みこんで温めながら、涙を流した。悲しみをもう父に隠す必要はなかった。

最期にアイスクリームの幻まで見て逝った父は、食べることが本当に好きだった。柚子、桃、無花果、スイカ、木苺、蜜柑、いろいろな食べ物が季節ごとに店頭に並ぶ。父の想い出も季節ごとにめぐってくる。ありがたいことである。

父エッセイ7 「破れ稲荷」

『破れ稲荷』(第47回 20030306)
『山の手は坂で覚える。下町は橋で覚える』という言葉がある。
東京の山の手は広大な武蔵野台地の東の端にあって、緩やかな起伏で成り立っているから山に伴った坂道が多い。
下町は徳川家康が江戸入府後、物資の運搬を海路に求めたために運河が切り開かれ、そして人口が増えていくたびに東京湾の埋め立てを図ったから、橋がやたらに多い。
大塚駅を発車する錦糸町行きの都バスに乗ると、そのことがとても顕著に体験できる。
白山から下ってくる春日通りの道はかなりの急勾配で、春日町の交差点を谷にして再び上りとなり、真砂坂上から湯島天神の辺りを頂にして、もう一度、急な下りの坂道が上野広小路へと続いている。広小路から先の起伏は橋がもたらしていて、地名もだんだん海に関連するものになっていく。
広小路から北の方角には上野の山があり、北に入谷、谷中と谷の地名が残り、さらに西の方角に戻ると白山。この辺りは坂道ばかりである。
不忍通りと白山通りの交差点を動坂という。江戸時代の初期に万行上人が、この坂下に庵を設けて不動明王像を安置したので不動坂と呼ばれていたが、やがてそれは略されて、動坂と呼ばれるようになった、と町の観光案内書にあった。この坂の途中に稲荷寿司を売っている店があり、さらにその坂をのぼっていくと、がんや感染症を治療する都立駒込病院がある。15年前には、都立駒込病院に入院したらかなりの重病だと言われた。最後の望みを賭けた治療ができる医療機関の最先端だったからである。

父が胃を全摘したその翌年に、私の夫が亡くなった。
父は私を可哀想だと言い、家業の食堂で使用しているお米から魚、肉、しょうゆ、味噌にいたるまで、私の家庭に運んでくれた。
「俺は胃がなくてもこんなに元気になったんだから、まだまだ俺は頑張れる。お前の家は今が大変なんだから、俺がついていなければ」。それが父の口癖だった。
が、父はその年の夏に微熱が出て体調を崩した。再発だった。
「胃腸外科でもらっていた薬を、これまできちんと飲んでいなかったからな。これからはちゃんと飲むよ」と言った。
私は驚いて弟の家に電話をした。
「病院から出ている薬は抗がん剤だろうと思う。飲んでもらわなければ困るんだけど、仕方ないなぁ。告知をしていない害だよね。でも、ものは考えようかもしれないよ。お父さんが元気を快復したのも、がんではなかったという事を支えにしたからかもしれないしね。俺たちはお父さんのがんを告知せずに、握りこんでしまうと決めたんだから、今更ほかの道にはいけないよ」。と弟は言った。
父は駒込病院に入院をした。風邪で熱が出たから点滴をすると医師は言った。父は短期間の入院だと信じていた。夜になると私たちの家に電話を掛けてきて「今何をしている? どこも痛くないから帰りたいなぁ」と言った。
検査の結果、胆嚢にも転移があって、それはかなり大きく、父の体の皮膚を破って外に出てくるような大きさになっていた。

夫が亡くなった後の私の家庭を父は随分と助けてくれた。だから私は病院に通って父の話し相手になろうと決めた。仕事が終わると、私はバスを乗り継いで動坂下のバス停から病院を目指して毎日、坂道を上がって行った。
上がっていく途中に寿司屋があった。月末で持ち合わせがなく、安く売っていた破れ稲荷を5個だけ買った。父と一緒に少しの夕食を摂ろうと思った。病室を開けて中に入ると、父が色のない顔で寝ていた。つい先ほど、腹の腫れ物が破れて、食事は禁止になった、と言う。
「何を買ってきた?」と聞くので、「破れ稲荷があったからね、一口食べるかなと思って。……食べられないんだね。明日にしょうか」と私は答えた。
「俺はいい。お前食え。仕事が終わってすぐに来たんだろう」。
私は父に甘えるつもりで素直に食べた。父は窓のほうを見ていた。

父は蜜柑なら、5,6個、スイカなら半分は朝飯前に、マコロンが好きで袋を丸ごと……とにかく何でも良く食べる人だった。食べることが楽しみで仕方がないという食べ方だった。
転移したがんが胆嚢を破ってさらに腹部の皮を破って、父の腹に穴があいた日、何も食べられなくなったその父の前で、私は破れ稲荷を食べた。何故食べたのだろうと、チリチリチリチリと後悔の念が今でも体をめぐる。
父を越えようとは毛頭思っていないが、日々訪れる雑事のなかで状況を読み取る判断の甘さが付いて回る。父が守ってくれて今の私があるのに、父のような包容力を持ち合わせられないで、坂の途中に不安定に立っているだけのような、情けない自分である。

父エッセイ6 「風鈴」

理由あって縁が切れていた伯父から電話があった。
(どのような理由かは、先週のエッセイ『フーリンリン』をごらんくださいませ)
「やっとかめだなも、きみちゃん。あんたのお父さんとはちょっとした事で喧嘩になってしまったけど、私も至らんところがあったでねえ、申し訳ないと思っとる。今日はお願いがあって電話をしたんです。
私は東京で事業の失敗をしたけれども、職業軍人で満州に渡っていたこともあるから年金の額も多いし、蓄えた財産もそれ程減ってはいないんです。預金と住んでいる名古屋の家があるけど、それをきみちゃんに譲りたいと思う。きみちゃんは私が貰いたいと思っていた子だし、どこかに寄付することも考えたけど、どうしても血のつながった人に貰ってもらいたいんです。
きみちゃんは旦那さんを亡くして、子どもさんとの暮らしで、でも、暮らしに困ってらっしゃるわけじゃないから、こんなお願いをしても駄目かもしれないけど……私の女房は今、病気でね、もう長くないと思うんです。女房が死ねば私は一人になる。
それで、ご相談なんだけど、きみちゃんに名古屋に来てもらって、同居してもらって、私が死んだあとは財産を譲りたいと思っているんです。見てもらうとしても三年くらいで私も死んでいくと思うから、そんなに面倒はかけないと思うんです」。
私は、仕事の保育の予約児が来年も埋まっているので、来年いっぱいは東京を離れられない旨をお話した。伯父はその予約児は再来年の春には終わるんですね、と確認をして、その頃にまた電話をすると言った。

子供を持たなかった夫婦の片方が病気になると、残された者は寄る年波の心細さで身の振り方を不安に思う。それで、単身家庭で動きの可能な姪である私のところに電話が来たのだ、と私は落ち着いて判断をした。
私の実家に碁を打ちに来た伯父、父に手形を割ってもらいに来ていた伯父、父がこの伯父との兄弟げんかで縁を切ったことなどをフワーと思い出した。伯父の言葉の端々には年寄りの心細さから来る不安感の果て、とも言い切れない、ある意味の身勝手さの片鱗を感じて、積年の出来事が何となく理解できたような気がした。
遺産があると公言できるのは、今流に言えばラッキーな老後である。それならば、面倒な血の関係に頼らずとも、預貯金と家を処分したお金でそれなりのホームに入所するのが、子を育てえなかった人の覚悟というものではないだろうか、と一瞬思ったが、そのことを言うのも酷な気がして、「とりあえず今は、伯父さんの面倒を見に名古屋に行くことはできない」とだけ返事をした。

私の弟はしっかり者である。この『伯父遺産譲渡』の顛末を母から聞いたらしく、電話がかかってきた。
「あやふやな態度でいると、あっちは年寄りだから自分に都合の良いように話を積み上げていくぞ。ちゃんと断っておけよ」
「名古屋に行く意思がない、とはっきり言うのは、年寄りだし可哀相じゃない? 伯母さんが亡くなったりすれば、また状況は変化するでしょ。その頃には有料老人ホームに入所しているかもしれないし、不安を抱えている年寄りに何も今、言い切らなくとも……」
「お姉さんがはっきり断らないと伯父さんは夢を持ってしまうよ」
「いいじゃん。きみちゃんが三年経ったら来てくれるかもしれないということが頭にあったほうが、伯父さんは元気が出るじゃん」
「知らないぞ、ある日チャイムが鳴って出てみたら、引越しトラックと一緒に伯父さんが助手席で手を振っていたとしてもさ(笑)。だけど、大体失礼なんだよな、あの伯父さんは。お父さんと喧嘩をしたくせに今頃になって電話を掛けてきて。それに甥や姪の中でお姉さんが特に可愛いなんて、ずいぶん昔から伯父さんはそれを言っていたし……」
「貰い受けられたらと思っていた姪だからじゃないの。ともかく、この話は放っておこうよ。伯父さんも思いつめての揚句じゃなくて、思いついての電話だったってこともあるでしょ。時が解決してくれるよ、多分。このことで私たちが喧嘩することないじゃん」。

年をとると体が思うようにならない。そんな中で友人知人やパートナーが欠けていく。気持ちも萎える。お年寄りの周りの風景はどのように移ろっていくのだろうか。年をとれば自分の一生を気持ちの中で清算しなければならない時がやってくる。その時、心はどんな想いになるのだろうか。
身勝手な伯父の電話だったが、お年寄りの心情に思いを馳せられないもどかしさが、季節外れの風鈴のような物寂しさを連れて、今も私の心に残っている。

父エッセイ5 「フーリンリン]

火鉢の上で鉄瓶が湯気を立てていた。その横で父と伯父が碁を打っていた。
碁盤に打たれた白と黒の石が、右下から中央にもつれ合いながら伸びて陣地を取り合っていた。腕組みをして、うーんと唸る父。傍らの茶器から煎餅を一つ取り出してほおばる伯父。碁盤の残り半分には、小競り合い中の石が置かれていたが、打ち手の所作を比べれば、子どもの私でも伯父の有利は想像できた。
伯父は中央区水天宮の交差点脇で食堂を経営していた。この伯父の弟である私の父は、兄に習って名古屋から上京して墨田区業平橋の交差点脇で、同じように食堂を経営した。
水天宮から都電の『柳島』行きに乗って、伯父は我が家に碁を打ちにやってきていた。伯父には子がなく、私の父が離婚をして私を抱えたまま後添えをもらった時に、伯父が私を貰い受けたいと言ったそうだが、父は自分の初めての子だから渡さなかった、と聞いている。

父が対局できない時は、私が伯父の相手をした。もちろんお遊びもいいところで、父が登場するまでのつなぎであった。碁盤上にある『星』と呼ばれる要所に、自分の石をあらかじめ置かせてもらう。その石の四隅にさらに二目ぶら下げてもらう。ハンディ17目。これを我が家では風鈴の形と見て『風鈴プラスおまけの鈴』という意味で「フーリンリン」と呼んでいた。
「きみちゃん、フーリンリンで碁をやりょみゃーか」。伯父は我が家に来ると、丸っこい顔の中の目じりをたれさせて名古屋弁で言う。碁盤の上にフーリンリンと言いながら黒石をいっぱい置く。こんなに置かれたら伯父さんの陣地は無い様なものだわなぁ、と言いながらも、いつの間にか取れたはずの陣地は死に目となり、伯父の手元は碁笥からあふれたアゲハマでいっぱいになっていく。何手も先を読んでいかなければならない囲碁なのに、フーリンリンにしてもらっても目前の一手しか読めずに負けてしまう自分を、いつも情けなく思った。

伯父は大衆食堂経営だけでは飽き足らず、練馬に工場を建てて電機部品の会社を興した。ネクタイを締めて社長になった伯父は手形を割ってもらいに父のところに来ていた。父は現金商売なので割っていたらしいが、100万以上の手形は断っていたようだった。しばらくして電機工場はつぶれ、それから何をやっても仕事は長く続かなかった。
伯父は水天宮の伯父さんと呼ばれたあと、事業の失敗で住居を転々としたために、練馬の伯父さん、寿町の伯父さん、葛飾の伯父さん、名古屋の伯父さん、とめまぐるしく呼び名が変わった。
葛飾の伯父さんと呼ばれていた頃は、何かの国家試験を目指していて一日中勉強をしていた。私が訪ねると、いたずらっぽい目をして私を呼び「勉強はしているけど自分は中学しか出ていないので受験資格が無い。だけど女房に馬鹿にされるので、勉強に忙しいフリをしている」と小声で言った。
やがて、葛飾の線路脇のアパートをたたんで、伯父は生まれ故郷の名古屋に帰って行った。
伯父は実母が危篤になった時も駆けつけて来なかった。父は「いい兄だけど、ちょっと情に欠けるところがある」と珍しく怒った顔をしていた。

離婚を経験した父。東京に出て食堂を根気良く続けた父。金持ちでもないのに兄に手形を割ってやった父。末子なのに母の面倒を見た父。野望を持った伯父。ふるさとに帰った伯父。
50代の初めに双方が電話で大喧嘩をした。食堂のカウンターに父が一人伏せて、おいおい泣いている、と母から私に連絡があった。理由を聞いても言わないのよ、と母は困惑していたが、父と伯父の兄弟げんかに介入することはできずにそのままになった。漏れ聞こえた話では、兄弟の中で、父が幸せをみんな持ってしまったということらしかった。
名古屋に帰った伯父の気持ちは分からないわけでもないが、幸せを手の中で大事に守った父の日常は、身びいきを差し引いても納得がいくものであり、父の葬儀にも病気を理由に来なかった伯父とはその後、縁が切れている。

私と弟も中学時代から囲碁をして良く遊んだ。負けてばかりいる私がくやしさの余り、弟が中座している間に碁石を半分そっくりそのまま自分の陣地に有利になるように移動させた。席に戻った弟は作戦が狂い、あれぇ?と言ったが、まあいいかと言いながら、そのまま続け、そして私は勝った。後味の悪い勝ちであった。
弟は親切で、落ち着いている。私と妹は行動的でちゃらんぽらんで物事の詰めも甘い。だから碁では勝てない。長じてからの兄弟げんかはしたことがない。父からの教訓である。

父エッセイ4 「父の匂い」

朝起きてくると、調理場の5つあるガス台の全てに大小さまざまな鍋が乗り、そこからいっせいに湯気が立っていた。
香菜、にんにく、鶏ガラの入ったスープ鍋は煮えたぎり中。豆腐と油揚げの入った味噌汁は火を止めたばかり。蒟蒻と生姜と牛蒡を炊き合わせた香りが濃く漂い、さばの味噌煮が落し蓋の下からはみ出し、ご飯を炊く釜が踊るように噴いていた。私は半目覚めのまま、調理場が見える階段に座り込んで、まるでオーケストラのような朝の調理場を見ているのが好きだった。
父は調理師の免許を持っていなかったので、職業安定所から斡旋してもらった初老のコックさんにいろいろ指導されていた。メニューの書き方、コック帽のかぶり方、烏賊の皮むきや刺身の盛り付け具合まで父に丁寧に教えてくれていた。父は自分の身丈よりやや大振りの真っ白な白衣を着てコックさんの話に神妙にうなずいていた。

父は6人兄弟の末子だったが戦争から帰ってきたのが一番早かったという理由で、家業の農業を継いだ。田も畑も養蚕もする農家であったが、農閑期には土木工事の現金収入に出向くなど暮らし向きはあまり良くなかったようだ。加えて父はアレルギー体質で養蚕のため桑畑に入らなければならないことがかなりの苦痛だったようで、農業の先行きにも不安を覚えていたらしい。
昭和34年、5000人を越える死者・行方不明者をだした伊勢湾台風が中部地方を襲った日の20日前に、父は農業に見切りをつけて田畑と家を売り払い、高齢の母親と妻と三人の子どもをつれて生き馬の目を抜くという東京に出てきた。そして東京の下町、墨田区業平橋の交差点脇に10坪ばかりの小さな大衆食堂「さかえ屋」を開店した。
当時の父の手帳をみると店舗用の家を借りて食堂の什器を買い入れると残りの手持ち金は30万とある。木造二階建て家屋の賃料が5万円の時代だったので、食堂が成功しなければ半年でドロップアウトの切羽詰った状況が読み取れる。
朝定食が、ご飯、味噌汁、納豆、お新香で150円。カレーライスが200円。営業時間は朝の六時半から夜の10時まで。売上げの予測やコックさんへの支払いなどの算段をした30代半ばの父のやる気が伝わってくる文字が手帳の中に見える。
一切を売り払ってきた郷里に再び帰ることはできず、わずかな手持ち金の中から、やがては借りていた家を買い取るまでには相当な苦労があったと思うが、調理場の湯気越しに見る父の目はいつも優しく、父の体に染み付いていったさまざまな食べ物の匂いを嗅ぎながら、私たちは安心して東京の生活になじんでいくことができた。

昭和59年6月、父は胃がんの手術をして余命3年の宣告どおりこの世を旅立って行った。
繁華街に出ると私は時々路地裏に足を向ける。特に飲食店のたくさんある路地は、チャン鍋のガチャガチャした音や、食器の触れ合う音と共に調理場の独特の匂いがあって懐かしい。白衣を着ている人の中に知らず知らずに父の面影を追っていることもある。

余談であるが、結婚をしてはじめて夫に味噌汁を作ったとき夫は「まずい」と言って箸を置いた。湯の中にお豆腐と油揚げとねぎを入れて味噌をいれた・・・私が毎朝見ていた調理場での味噌汁と全く同じ様に作ったはずだった。一人暮らしの経験もある夫は「あれはお湯を使っているんじゃなくて、だし汁を使っているんだよ」と言った。父に言ったら「たわけめ」と言われた。
食堂の娘をもらったけど失敗した、と夫はしばらく言い続けていた。

父エッセイ3 「ホウレン草」

祖母は編み物をしていた。寄せ集めた毛糸で縞模様になる何かを編んでいたが、編み棒と同じように口が良く動いていた。「おみゃあさんが・・・おみゃあさんが・・・」(注:名古屋弁で、『貴女が』のこと)と母に対して叱責をしている口調だった。
私は板の間に伏してぬり絵をしていた。私が何歳だったか、2歳下の弟は家のどこにいたのか、8歳下の妹は生まれていたのか何も覚えていない。私の耳は象のダンボの様に大きくなっていたと思うが、祖母が何を言っているのか、その細かな意味は理解できなかった。
ただ、家中の空気がピリピリと張り詰めていた感覚が残っている。

叱責とも愚痴とも取れる祖母の言葉群はいつまでもだらだらと続いていた。母は薄暗い土間のどこかに立っているようだった。かまどの上の大きな鍋にはほうれん草を茹で終えた汁が残されていて、そこから甘い匂いの湯気が立ちのぼっていた。
農業の合間に道路工事の日雇いに行っていた父は、夜、家に帰るといつもタライに湯を張って足を洗っていたから、かまどに残っていたほうれん草の茹で汁は、多分その日の父の足を洗うものだったのだろう。張り詰めた空気をほぐすかのように立ちのぼっていた湯気が、突然揺れて割れた。
「私のようなものは死んでしまうから!」と母が大きな声で叫び、戸口に走った。祖母は「きみこ!お母さんを押さえやぁ!」と言った。私はわけも分からず裸足で土間に下りて、母の足を両手でしっかり抱いて押さえた。子どもの小さな両腕など振りほどこうと思えば簡単だったはずなのに、母は足を私に抱かせたまま泣いていた。  
死ぬとはどういうことなのかと一瞬思ったが、ほうれん草の茹で汁の甘い匂いが再び漂って、頭の中はすぐにぬり絵の事でいっぱいになり、ほうれん草のような緑色もきれいだなと思っていた。

父がいつ帰ってきたのか、その日の嫁姑の争いの原因や行く末がどうなったのか、幼かった私にはいまでも霧の中だ。
トラウマ(心的外傷)という症例に入るほど重くはないが、私は大声を出される状況に行き当たるとひどく心が落ち着かなくなる。不安な状況を回避したいためか無意味にへら~と笑ってしまったり、はたまたやたらテンション高くなって多弁になってしまったりする。よく笑ってよくしゃべると人に言われるが、そんな自分を分析するとここに行き着く。
人生の機微も綾もほんの少しは分かる年齢になって、当時の父や母や祖母をその家族の役割としてではなく、一個人の人間性として見つめなおせるようになった。
栄養満点のほうれん草を嫌いにならなかったことは、幸いだったと思っている。

父エッセイ2 「キンピラゴボウ」

お弁当箱のふたを開けると、真っ白なごはんがびっしり詰まっているだけで、おかずは何もなかった。私はあせってしまった。
高校に入学して初めてのお弁当の日、友達もまだできず、おかずを分けてもらうこともできない。それよりも貧しそうに見えて恥ずかしかった。とにかく少しだけでも食べて早々に箸を置こうと白いご飯をひとすくいしたら、一番下からお肉の塊が出てきた。やられた!と思った。
またある日は、大きなおにぎりの中から小紙片。何が書いてあるのかと広げているうちに、級友たちが寄ってきた。「またいたずらされたの? 今日は何? クイズ? それとも説教? 」。

私の実家は墨田区業平橋のバス停前で大衆食堂をしていたので、厨房にいる父が子供たちのお弁当を作ってくれていた。
父が作るお弁当だから雑だったが、何かしらのいたずらが隠されていて、口では「恥ずかしいから普通のお弁当を作ってね」と言いつつも、学校で開けてみるのは楽しみだった。

ある夜、ご飯の上に箸を乗せたままの父の夕食が階段の脇に置いてあった。夕食を食べ始めたもののお客さんが入ってきたので中断したのだろう。父は厨房で威勢のいい音を立ててチャンナベを振り回して野菜炒めを作っていた。
父のおかずはキンピラゴボウだった。私と弟にある考えが浮かんだ。洗濯籠の中に父のベルトがあった。長年の愛用品でベルトの先がぼろぼろになっていて、そして見事にキンピラ色だ。常日頃の父のいたずら弁当のお返しとばかりに、私と弟はハサミを持ってきてベルトの先を細く切った。そして……父のキンピラに混ぜた。
私と弟は期待に胸弾ませて父のキンピラを見つめていた。一区切りついた父が戻ってきて、ヨッコラショと座り、新聞を読みつつご飯を食べ始めた。キンピラを口に入れた。動きが止まった。口の中から何だこれは……と出しつつ私たちと目があった。
「何かしたなぁ~お前たち!」
「いつものお弁当のお返しだよ」と弟が言った。
「たわけんとらぁめ!」
馬鹿なやつらめ……と父が名古屋弁で言った。父は口の中から出したものをしげしげと見て「ベルトを切ったのか」と言った。父はお茶で口をすすぎ
「たわけめ!あのベルトの先は、俺が便所に入るときにいつも前に垂れ下がってしまって、おしっこが染みているところだぞ!」
おしっこが染みているところがキンピラに!私と弟は畳の上を転げまわり涙が出るほど大笑いをした。

子供をユーモアたっぷりに、おおからにゆっくりと育ててくれた父が逝って、今年で14年になる。

父エッセイ1 「枇杷」

枇杷の木を屋敷内に植えると縁起が悪いという語り伝えがある。
枇杷の木はお寺に多い。お寺は死に繋がるところで、死を『忌む』(不吉なこと、汚らわしいこととして避け、嫌う)ととらえる日本的宗教観から、枇杷の木のあるところは不吉という図式らしい。
しかし、昔のお寺は診療所の役目をしていたこともあって、寺に植えた枇杷の葉は煎じて薬用に使われていたものであるらしい。人の役に立つ枇杷……私はこちらの説を信用している。その枇杷の実が深川の寺町にちらほらと見られる季節になった。

昭和33年、私は9歳だった。愛知県で農業を営んでいる両親の長女として、畑の手伝いをしたり、遊んだり、そろそろ自分というものが分かりかけて人生の出発点に立っているような頃だった。
私は一歳前の妹をいつも背負っていた。弟妹の面倒を見るのは当時当たり前のことで、背負ったままでかくれんぼや追いかけっこをして遊んだ。時には赤ん坊と一緒に乳母車に乗り込んで坂道を勢いよくかけ下り、挙句の果てに転覆。赤ん坊ともどもできたタンコブの言い訳に、知恵を絞ったりもした。
家の近くに安楽寺という寺があり、そこに枇杷の大木があった。登りやすい木だった。葉の間には大粒でつややかな実が見え隠れしていた。樹の下で少し思案したが、一緒に遊んでいた友達に押し上げてもらって、妹を背負ったままで樹に登った。枝につかまって動ける範囲の枇杷をいくつかちぎって下に投げた。しばらくすると渡り廊下にヒタヒタと音がして住職さんが現れた。「危ないから降りなさい。欲しかったらあとであげるから」。
記憶はそこでとぎれ、後日、仏間の隣の暗い部屋に隠れている自分につながる。毎月七日は祖父の月命日で住職さんが経を上げに来ていた。普段は食べられない白米の炊き込みご飯が、お参りを終えた住職さんの前で湯気を立てていた。しかし私は『枇杷の一件』が、家族に告げられることを思うと暗い部屋で胸がふさがりそうだった。 
住職さんが帰った後に叱られた記憶はない。それどころか、お土産にと持ってきてくれた枇杷が仏壇に上がっていて「『妹の面倒を見る良い子だ』と住職さんがほめていた」と祖母が笑顔で私に言った。

枇杷に出合うと、その向こうに白米ご飯が湯気を立て、咎められずにほっとしてご飯を食べている自分の幼い姿が見える。
誰がどのように守ってくれたのか、と考えられるようになったのはずっと後のことだったように思う。

2007年5月4日金曜日

がんエッセイ16「むくげの花」

Kさんに捧げるエッセイ

木槿(ムクゲ)の花が風にゆれている。木槿は韓国の国花で無窮花(ムグンファ)と書く。ハイビスカスを小さくしたような花で、色は白、薄紅色、紫、あるいはまたそれらの混色がある。花言葉は<強い精神力、繊細な美、信念、デリケートな愛>。強い太陽にさらされながらも、夏をしっかりと乗り切っていくこの花が私は好きである。

学生時代は数学・物理などが苦手で、兎にも角にも活字が好きだった。1963年「週刊新潮」で始まった山口瞳さんの『男性自身』を中学生の頃から愛読していた。子どもゆえにわからない内容もあったが、人や物を悪く書かない山口瞳さんに惹かれた。
本箱を整理していたら、『男性自身・木槿の花』が出てきて懐かしく手に取った。この本は昭和57年から61年までの「男性自身シリーズ」として発行された4冊の本の中からセレクトされたエッセイで成り立っている。
171ページには、「笑っていいか」という章がある。内容は『ニューヨークのすし屋ではガリの事をジンジャーというそうだ。向田邦子が「アガリ」のことを「アップ」といったが通じなかった』などという他愛ない面白話が書いてある。久しぶりの再読。上質な笑いがわきあがってくる。そうそうこの感じ、そしてこの笑い。笑いががん体験者には必要なの、と一人でうなずく。笑うと血液中のリンパ球が活性化するのは事実で、そのなかでも特にNK細胞は、活性化をすればするほどウイルスやがん細胞を食いまくってくれるそうで、だから、がん患者にとって笑うことは非常に大切なことになる。
私の友人のKさんが、悪性リンパ腫で初期治療のあとに再発をされた。「再発をしました。次は骨髄移植を含めた治療になります」というメールを頂いたのが八月の下旬。切なかった。

エッセイを書いていますというのもおこがましい私だが、少し前は身の程知らずの野心があって、文藝春秋社・ポプラ社・読売新聞社などに売り込みをかけたがコトゴトク駄目で、「木曜日のエッセイは」日の目を見なかった。普通ならしぼむところだが、私はコツコツとエッセイを書いていく道を選ぶことにした(それしか残っていない・笑・)。作家になれる可能性は極薄だけれども、作家の真似事はいつもしてみたいと思っている。『木槿の花』の171ページの「笑っていいか」様式で、これからがんの再治療に向かうKさんにエールを送りたい。笑っていただいてNK細胞がKさんの体内でより活性化してくれるのを願って……。
では、「笑っていいか」ゆはらきみこバージョン。 

■最近体重計を買った。100gでも下がるとうれしい。昼間にどうしても量りたくなって乗ってみた。着ている服が邪魔。だんだん脱いでスッポンポンになったところで、ピンポン宅急便です!とキタモンダ。急いで服を着た。玄関でかなり待たされた宅急便のお兄さんの笑いがどう見てもこわばっていた。
■息子が電気自転車を買ってくれるという。コンセントは廊下の向こうにある。自転車を家の中にどうやって入れたらいいか。自転車の寸法を計ったり家の間口を計ったりしてかなり悩んだ。
■外人男性とダブルスを組んでバドミントンの試合をした。カウントがわからなくなったので、イクツ?ときいたら、彼は「32歳デス」ってきれいな日本語で答えた。あのねぇ……試合中に年齢を訊く?
■海外旅行で白金ペンダントヘッドを買った。ターバンを巻いたインド人が応対してくれた。電卓をたたいて値段の交渉。たたいては拝み倒しをくりかえした挙句についに出てしまった。「ワンボイス!」もちろん通じるわけない。日本の恥だった(汗)
■Suikaを使い始めの頃、改札のきっぷ投入口に押し込もうとしたが入らなかった。その姿を、友人に目撃されて笑われた。最近はスイスイ使える。お財布から出して改札機に見せるだけだもの。先日、お財布を改札機に見せている人を発見。連れに、お財布の中のSuikaを最近は読み取れるようになったのね、と小声で訊いたら、初めからよ、とあきれた声で返答された。
■高見盛関を見ると「キョドキョド」という文字が浮かぶ。その高見盛関が2004年5月19日に千代大海関に勝ってうれしそうにインタビューを受けていた。アナウンサー「おめでとうございます」高見盛関「ありが、とぉございます。ゼイゼイ(息)」アナウンサー「この頃インタビュールームに余り来てもらえなくて」高見盛関「そう言われても……(キョドキョド)」高見盛関は負け続けで、インタビューされる機会もなかったのだ。悪いことを言たかなぁ、とアナウンサーの顔。仕切りなおしだよNHK。
■「犬のウッフンは飼い主が始末しましょう」。京都旅行で見つけた看板。フンの前にウッがいたずら書きされていたのだ。糞に悩んだ近所の人のウップン晴らし。
■友人のお嬢さんが結婚をされる。格式だか見栄だかを重んじる東×地方にお嫁に行く。花婿の父上が上京されて花嫁宅に挨拶に。胸内ポケットからかなり分厚い封筒が。格式ある東×地方のこと、これでお支度を……と思ってしまった友人は、何百万円入っているのかとドキドキしたそうだ。出されたのは格式ある家系図の巻物だった。要らないちゅうのそんなもの!と友人は胸内で言った。
■台風一過は「台風一家」。海の向こうは「大きな滝になっている」。電車が不通になったのは「急行がなくて普通」。地球上に住んでいる人が振り落とされないように「地球はものすごいスピードで廻っている」と思っていた。私の中学生時代。

木槿はきれいな花であるが一日しか咲かない。僅かという字が木偏を伴って使ってあるのはそのためである。わずかに咲く花など縁起でもないと思われるかもしれないが、人生はどれを取ってどれを信じて歩いていくかで道は大きく違っていく。がんになったら自分にとって都合のよいものだけを体や脳に入れることは大切である。だから私は木槿の花のあり様よりも、花言葉の中の<強い精神力>を選び取ってKさんに贈りたい。山口瞳さんとまでは行かないが笑いを少し添えて……。骨髄移植の治療は順調だろうか……。

がんエッセイ15「辻褄」

女物の浴衣を縫うとき、一反の反物を折り曲げながら裁っていく。まず袖の部分として50cmの輪を二つ取る。残りは身頃の輪が二つと、それより19cm短い輪を一つ取るがこれはあとで横に切って衽(おくみ)と衿になる。背縫いをして脇縫いをして衽をつけて、袖を縫い、衿と半衿をつける。衿先はキセが2㎜くらいかかり、褄下にピッタリとそろう。裾の始末は三つ折絎けで左右の両端の部分は額縁となる。出来あがった着物を本畳みしていくと左右の衿先を合わせてそのまま裾の先がピッタリと重なる。娘の頃、向島の花柳界の着物を専門に縫う先生にお裁縫を習っていた。あぐらをかいた足の親指に反物の端を挟み、先生の運針は音もなく進んでいく。絹糸をしごく音が静かにする。何人かいる生徒が出来上がった浴衣を先生の前に持っていく。先生は辻褄が合うかをじっと見る。「きちんと合うべきものが合う、納得のいく道理や筋道は大事なんだよ」と言った先生の声を今でも覚えている。

がんを告知されると、辺りの景色は物の見事に色を失う。積み上げてきたものが崩れていく音がする。見た目の体は普通なのに終わる命。納得が出来ない。何かの間違いだ。でも、慣れ親しんだ人々や環境から離脱していこうとしている自分の後姿はなぜ?死への畏怖。どこからともなく悔しさが沸き起こり、それはやがて憤りや怒りへと形を変える。そして健康な人々への嫉妬心。心の中で命が助かるならばと何かと取引をする。神にもすがる。疲れてあきらめて、そしてがんを受容する。
運よく治療が終了するとがん患者は再び生きるレールの上に押しやられる。果たして生きていくことができるのか。生きていかれる保障を誰にもらったらいいのか。疑心暗鬼の日々。そうだ、がんでも生きている人々はいるはずだ。どこにいるのか。その人たちが今、私の横に立って肩に優しく手を置いてくれたら、どんなに勇気が出ることだろうか。がんでも元気な人々をみたい。……私の場合はひたすらにそう思った。だから、がん罹患以後の私はがんでも元気に生きている一人として、頼まれればどこででもがんの話をしてきた。

18年春にR市の行政のTさんからメールが入った。「今回は老人福祉施設に勤務する職員が対象です。受講される介護職の方々も、自身の死生観を確かめながら手探りのところがあります。死について直面した体験談をお聴きして、介護に役立てたいと企画しています。死に対峙した体験をお話いただけたらとお願いする次第です」。
老いから感じる死と、私ががんで感じた死とは同じなのだろうか。少し不安だったけれどもお引き受けすることにした。
講演のために原稿をまとめる。それはかさぶたを一枚ずつ薄く剥がしながら13年前の自分に戻っていく作業である。がんを告知した医師の唇と、辺りの景色が一瞬にして色を失った情景がよみがえる。入院中に連れ出してもらった桜の木の下で、未来に向かう春の喜びの中に、あまりにも取り残された患者の私がいて、耐えられずに大泣きをしたことを思い出す。どこかの病室からもれてくる別れの慟哭に耳をふさいだこと……死に直面した当時を思い返すのは、思ったよりも辛い作業になるが、それでも私は、講演の依頼があると原稿をまとめて出かける。えらいという気持は微塵もない。生かしてもらった御礼に伝えなければならないという気持ちがある。そしてまた伝えることによって、私もがん以後の自分を、その都度に確かめながら生きてこられた気もするのだ。
老人の死への気持ちを少しでも理解したいという介護職の方々への講演は初めてである。介護職の方々は若くて病気でもないゆえに死へのイメージは<怖い>が圧倒的に多かった。彼等が日々に向き合っている老人たちの持っている死のイメージは、<寂しい>ということだとお聞きした。死をどうとらえたらいいのかは、個々の問題なので講演での結論は出なかったが、私は壇上で<死を怖れずに寂しがらずに、なおかつ納得する>ということはどういうことなのだろうか、と思った。

がんを告知された13年前。死にたくないと思ったのは、もちろん子どもも小さかったし自分もまだ若かったし、やり残したこともいっぱいあったから、突然の命の終わりを突きつけられたことは哀しかった。哀しいことが過ぎると、悔しかった。夫の死後、普通の二親そろったのと同じ状況で子どもを育てたく、夢中で働いていた。通常の仕事のあとに証券会社へアルバイトにも行った。交通費を惜しみ、雨の日も傘をさして自転車で行った。夫に守られて優雅に暮らす友人たちとは距離を置いた。置かざるを得なかった。
やがて私はがんになった。文句ひとつ言わずに一所懸命真面目に働いた私ががんになって死んでいこうとしていた。それまで生きてきた中で私は働くばかりで、まだ十分にゆったり過ごす時間を持ったことがないのだった。それなのに死んでいこうとしていた。辻褄が合わないではないか。私は肩を丸めて自分を抱きしめてやった。がんがもし治ったら、遊べなかった時間を取り戻そう。ゆったりとした思い通りの自分優先の時間を過ごすそう。もし治ったら、もし治ったら。

がん以後、意識して自分優先で好きなことをしてきた。辻褄も間尺も合わせられたと思う。不思議なことに、死にゆくことの怖れも寂しさも今は薄らいでいる。

がんエッセイ14「玉川温泉」

秋田県の焼山山麓に位置する玉川温泉は台風の影響で強い横殴りの雨の中にあった。蛇行する山道を車で登っていくと、岩がゴロゴロとあるむき出しの山肌のところどころから蒸気が立ちのぼるのが見えてきた。玉川温泉を目指す車の列の脇にはを、傘をさしてリュックを背負い、ズボンの裾をめくって歩いていく人々の姿もあった。
混雑する駐車場の手前で車を降ろしてもらって、遊歩道に入った。
遊歩道を進むと右側に激しく蒸気が噴出しているのが見えてきた。大噴きと呼ばれる源泉で、あたり一面に強烈な硫化水素臭がしている。摂氏98度のお湯が、毎分9,000リットルの勢いで噴き上がってきている、と案内板にあった。
大噴きの反対側は細い遊歩道がついているものの、石ばかりの風景がひろがっていた。大きめの岩の陰には、雨の中だというのに、パラソルをさして、ゴザを敷いて座りこんでいる人がいる。
地熱により温められた石の上で横になることで、じっくりと時間をかけて体を温めて癒していく人たちだそうである。
遠くには雨露や陽射しを防ぐことのできる小屋もいくつかあって、その中でも岩盤に横たわることが出来る。小屋に向かっていくのか、丸めたゴザを小脇に抱えた人たちが、幾組も私たちを追い越して行った。
このあたり一帯の石は、日本では玉川温泉にしかない北投石(ほくとうせき)と呼ばれるもので、鉛の多い褐色の層とラジウムの多い白色の層が重なって縞模様になっている石である。ラジウムを含有しているということは、即ち微量な放射線を出していることで、この遊歩道に立っているだけで、なにか息苦しいような一種異様な心持状態になってくる。どこを見渡しても振り返っても、石ころばかりの世界。<茫々たる風景>という言葉が私の頭の中に浮かんだ。

小鹿のような彼女だった。
小柄で褐色の肌、黒い大きな目、きゅっと引き締まった口元。落ち着いた利発なしゃべり方。バレー部の部長。そして小中学校時代を通してずっと学級委員。
彼女からは生涯に三度の手紙をもらっている。一番最初の手紙は20歳前だった。「ずっと謝ろうと思っていたのだけど、小学生の時、かばって上げられなくてごめんなさい」という詫び状だった。
小学校5年生の秋に私は名古屋から東京の小学校に編入した。標準語になじめず、東京の小学生の上品さに戸惑い、勉強は一年間も休学したかと思えるように進んでしまっていた。積み上げ学習をしていかなければならない算数などはチンプンカンプンの世界だったから、教室での私はただただ座っているだけの存在だった。
方言が邪魔をしてしゃべれない私を男の子たちがからかった。椅子を引き、消しゴムを丸めておまえの鼻くそだと笑った。陰湿ないじめではなかったが、ハエを追うように男の子たちに立ち向かってくれたのは、成瀬さんというお友達たった一人だけで、それ以外はクラスメート全てが、私を遠巻きにするだけの人たちだった。
大人になるその少し前、大人になっていくために越えなければならないハードルであったかのように、彼女は私に詫び状をくれたのだった。
卒業アルバムを卒業式の日に粉々に破いて川に流した私にとって、小学生時代はなかったも同然の中にあったが、彼女からもらった手紙で、私もまた小学校時代の思い出をほんのりと色付けることができて、大人になれた気がした。
二度目の手紙は、なぜそれをやり取りしたのか記憶にないが、大手の広告代理店に就職をして結婚をして、夫と話し合いの末、お互いの自由を尊重する結婚生活を送っていること、ディンクスの道を選んだことなどが書かれてあった。子育てに髪振り乱してそれなりに生活を切り詰めていた私は、彼女の葉書をまぶしい物を見るように見た。
三度目の手紙は今から8年前で、私ががんに罹患して「がん患者がともに生きるガイド」を出版した後、大腸がんについて教えてほしいことがあるの、という電話がかかってきた、その一年後の葉書だった。
葉書は絵葉書で石ころの多い山肌に蒸気が吹いている絵柄で、玉川温泉に来ています、という書き出しであった。
大腸がんが再発したことを記し、お医者さんは治療の道もあるけれども自由に過ごしてもいい、と言ったこと。どちらを選ぶか迷ったけれど治療よりも自然に在るがままに生きていく道を選んだということが、万年筆の太目の字で書かれてあった。自分の一生におおよその悔いはないけれども、ディンクスを通さずに子どもを産んでおけばよかったかな、その一点だけが曇りかなぁ、とも書いてあった。

玉川温泉の雨の中で、私はここに来たであろう彼女の姿を探していた。褐色の小麦色の肌と小鹿のような黒い目をもった学級委員の彼女はどこにもいなかった。
遠く雨にかすんでいる先も、またその先も土色の世界が広がっている。じっと見つめていると、それは、やがていつか誰もが通って行く道につながっているようにも見えた。
<往時、茫々として夢のごとし>という。それであるならば、なおいっそう今を一所懸命に生きなければならない。

がんエッセイ13「影」

7月の末に、健康診断書が出来上がっています、との電話をもらったので中堅どころの病院に出向いた。渡された大きな封等。金額の精算。お大事に!という受付の女性の流れ作業的な声を背中に病院の玄関を出かかったが、ふと中をのぞいてみる気になった。
仕事上必要な一般的健康診断のほぼいつもどおりの数値が並んでいる。順に追う。肺をかたどった図のところで目線が止まった。左の肺に黒く塗りつぶした楕円が一つ。その横に要精査の文字。要精査が精密検査を要することだと把握するまでに数十秒かかった。そして背筋がすーと寒くなった。
急いで受付に戻り、説明を伺いたいのですがと言ったら、診察することになりますが、と受付嬢は無表情でこたえる。診察をすればお金がかかりますが宜しいでしょうか、ということらしい。必要な説明をすることに医療側の責任ないのか、とかすかな憤りを覚える。

「時々ですが、乳首が影として写ってしまうことがあるんですね。暇ができたら一度CT検査されることをお奨めします」
暇ができたらでいいんですね、と押し返そうとしたが、このような不親切な病院で再検査などするものかと、13年前に私のがんを発見してくださった老医師のところに行くことにした。
老医師は、<町医者こそが診療に細心の注意をはらい、一人でも多くの患者を病から救い上げる使命を持つべきである。病院の建物がいくら綺麗でも患者は救えない。医師は心である>、が口癖である。
診察の日、私は肺の影を説明した。しかし、老医師はきちんと聴いていない。そして、「何であんたは、がんを発見した私の元に10年も来ないのか」と早々に説教を始めた。私としては、がんを発見してもらった事は重々感謝しているし、あとの手術と治療は老医師に紹介された都立病院の血液内科にかかって、その病院の経過観察の中にいるので、この老医師に不義理をした感覚はないが、その間一度も顔を見せなかったことにどうやら怒っている様子である。
「いいですか。私はがんを発見することに命をかけているんですよ。今はね、がんを一つやった人なんてヒヨコ。重複がんの人いっぱいいるんだから。それなのにその後一度も来ないで、あなたはがんを発見した私を捨てた!」
オーバーなと思いつつも「はぁ(-_-;)」と私はうなだれて、小言が終わるのを待った。
レントゲン室が空いたと看護士が呼びに来た。先導する看護士と従う私に「オイ待て、オッパイにこれを貼れ!」と老医師は胸のポケットから出した煙草の箱の中にある銀紙を抜いて看護士に渡した。
看護士は銀紙に綿テープをつけて乳首に張ろうとしたが、上手くいかない。「自分で貼ってもらおう!」と看護士はふんぞり返って老医師を呼びに行った。老医師がやってくる。こうやって貼ればいいんだよ。アレ、もう少しテープがいるかな。隠れないなぁ。オッこれでいい。こうやってオッパイのありかをちゃんとして、と老医師は満足そうである。私は上半身裸である。重大な再検査に臨んでいるというのに、老医師が私の乳房を押さえ込んでいる一所懸命さに、なぜか笑いがこらえられなかった。

仕上がったレントゲンフィルムを見る。あばら骨が交差しているその右下にかすかな丸い影。大きさはまさしく乳首ほどである。しかし対にあるべき左側にその影は見えない。
老医師は不信の目で「細工をしたにもかかわらず乳首は何故はっきり写らなかったのか」と横に立つレントゲン技師を責めるかのように振り仰いで訊いた。
「何貼ったんですか?」ぶっきらぼうなレントゲン技師の声。
「煙草の銀紙だよ」
「そんなもの写らないですよ」あきれたようなレントゲン技師の声。「しまったなぁ、二つ折りではだめだったか。三つにも四つにも折ればよかったなぁ」悔しがる老医師。そんな問題じゃないのにとばかりに、首をひねりながらレントゲン技師は退出した。老医師はつぶやく。「ピップエレキバンがあればよかったのになぁ。誰かが貼っているのをはがしても、そうすれば良かったなぁ」

他人の貼ったピップエレキバンを乳首に貼られる災難は免れたが、方法を誤って折角のレントゲンフィルムの読み取りに失敗した老医師は私を立たせてさらに試行錯誤をした。こうやってレントゲンの板が迫ってくるだろう、オッパイはこうつぶされる。透明の30cm物差しを胸に当てる。するとこの中心から6cmのところに、乳首がこうなる……。老医師はう~んと唸る。私もこの状態を熱心とみるか頼りないとみるかでう~んと唸る。
結局のところ、影の正体は疑問のままで、9月の肺がん合同研究会に提出をするからと、結果はそれまでお預けとなった。
先生、私の命は大丈夫?と訊いたら、心配ない心配ない!と言った。

プライバシーなどどこ吹く風で、待合室にきこえるような大声で患者や看護士に指示を出している老医師。診療時間など気にせず、少し笑えるような試行錯誤をやってしまうむちゃくちゃな老医師であるが、その分、患者のほうも遠慮なくとことん質問ができるので繁盛している病院である。
会計を済ませて暑い外に出た。
背の高いビルの谷間に、「真剣な医療は建物ではない」と言わざるをえない老医師の古い診療所が影のようにポツンとある。消えてほしくない影だなと思いながら、他方で消えて欲しい私の影を憂れう。今年の夏はひたすら長く、そして私の中でまだ終わっていない。

がんエッセイ12「仕切りなおして」

私ががんに罹患した年の冬、息子は中学三年生で私立高校に合格したばかりのところだった。担任の先生は、我が家が母子家庭の上に、さらに母親が病気になってしまったのを気遣ってか「今からならまだ都立高校に間に合います」、と言ってくれたが、そのまま私立高校進学でいいです、と私は明言をした。私の病気で息子の進路が変わるようなことはしたくなかった。私はがんの治療に入った。中学校の卒業式には出てやりたいと思ったが叶わなかった。
私が入院した病院に、息子は一度も訪ねてこなかった。電話は時折かかってきたが私の病状については何も問わず、いつも自分が訊きたいことばかりだった。「あのサァ訊いておきたいんだけど……」で始まる彼の話は、今すぐに訊いておかなければならない内容ではなかったが、それだけに、訊いておきたいという前置きの言葉が彼の心の中を表しているようだった。
切なかったが、お母さんは死なないから大丈夫とも、生きて帰れなかったときのために何か言わねばという気持ちも特になく、用件が終わると、互いに切るのをためらう時間がいつもよりほんの少しだけ多いような、そんな距離にいた。高校の入学式には何とか行ってやりたいと思った。

看護師が自分の腕時計を見ながら調節をしていった点滴の、最後の一しずくが終わった。架台にぶら下がっていた透明パックが、患者名ゆはらきみこ、と書かれた箇所で折れ曲がっていた。
時計を見たら8時だった。ナースコールを押して点滴が終了したことを知らせた。やがて看護師が処置台をガラガラ引っ張ってやってきて、透明パックにさし込んであった針を抜いてルートを無造作に束ねた。それから私のベッドにかがみこんで、私のパジャマの前ボタンをあけた。右乳房の少し上に当ててあるガーゼをゆっくりはがして、中心静脈に埋め込まれてある点滴用の針の周辺をアルコールで丁寧に拭いて、その上に密封パッチを貼ってくれた。
「針が埋め込まれているから、胸のところを押さないように気をつけてね。えぇと、3時間くらいの外出よね」看護師が看護記録をみながら言った。
病院の前からタクシーに乗って「水道橋」と告げた。治療のために丸坊主になっている頭にかつらをかぶり、ウイルス感染を防ぐためにマスクを二重にした。前日に娘が届けてくれたスーツは健康なときのもので、今ではどこもかしこもゆるゆるとして落ち着けなかった。体もだるかった。
タクシーは白山通りを下って一直線の道を走っていた。街の景色が流れていく。幹線道路と交差しているわき道のところどころに、桜の淡い霞が見えた。

式が始まるまであと少しだった。受付の脇に思いがけず息子が立っていた。しばらく見ない間に背が伸びたような気がした。息子はちらりと私を見たがそのまま自分が誘導する形で体育館に向かった。私に保護者席を示して、自分は決められたクラスの席に着いた。入学式は思っていたより早く終わった。校庭に出て記念写真撮影や教科書の販売で息子について歩いたが、疲労感が強く、私は途中で腰を降ろした。息子は、胸に埋め込んである針は大丈夫なの? と訊いた。胸に埋め込んだ針は当初の施術で、動脈をかすって肺に穴を開けるという医療事故を起こしていたので、余計に心配になったようだった。大丈夫よ、ちゃんと入っているから、私は胸の上を押さえて答えた。
再びタクシーで病院に戻った私は、とてつもない疲労感の中で発熱をしたが、久しぶりに見た息子の姿が嬉しくって気分は良かった。

息子はそのあと大学を卒業して社会人になった。私は罹患から12年が経って、元がん患者と言えるような立場に来た。
先日息子が友人とお酒を飲んで深夜帰宅をして、私の枕元に来て「母ちゃん」と呼んだ。明日では駄目?と言ったら、謝りたいことがあるから今がいいという。
「憤りでいっぱいで、家の壁を何度もたたいていた。俺はまだ中学生だったから、母ちゃんが死ぬかもしれないと思うと怖くて。死ぬかもしれない母ちゃんの姿が可愛そうで、どうしても見られなくて、病院に見舞いに行かれなかったんだ。上手く言えないけど何か理不尽なものに対して怒りを感じていた。母ちゃんは頑張ってきたのに、その母ちゃんに、がんがやってくるなんて俺は許せなくて。どうしても見舞いにいけなかった。このことはずっと心に引っかかっていて、一度謝りたかった」。
子どもは非力な存在で、環境を何一つ選ぶことなく生まれてくる。その与えられた環境の中で、雑多な感情を一つ一つ思いなおして仕切りなおして子どもは成長をしていかなければならない。
息子は小学生のときに父親の死に出合い、中学生で母親のがんに出合い、子供だけで取り残される恐怖や、他所と比べた理不尽さや、それゆえの憤りなど、心の中の葛藤がたくさんあったと思う。それなのに、それらをやり過ごしながら、よくぞ成人をしてくれたものだと、親の私の方が感謝したい気持ちでいるよ、有難うね、と息子には伝えた。

3月22日の読売新聞朝刊の一面に「2500m深海底に酸素も有機物も不要の原始地球の生命」という見出しの記事が載っていた。2面のミニ辞典には、原始生命とは地球誕生後に酸素もない極限環境下ではじめて生まれた生命、とある。発見された細菌群は普通の細菌と違って核を持たず細胞膜の中に最低限の遺伝情報だけを有する単純な構造をしていた、とあった。
38億年前の生命誕生から、時の環境にあうように一つ一つの仕組みが仕切りなおされて、たくさんの種の命がつながってきている。私もその命をつないでいく一人である。一つ一つを思いなおしながら、仕切りなおしながら、大事な命を引っさげて今後も生きていきたいと思う。

がんエッセイ11「月日は」

『つきひは はくたいのかきゃくにして いきかふひとも また たびびとなり……』

昨年の暮れ、がんに関する雑誌の二社からたてつづけに取材を受けた。一社は「がんに克つ」(株式会社 ぴいぷる社)、もう一社は「がんサポート」(株式会社 エビデンス社)である。
がん罹患からすでに11年を経ている私では、当時受けた闘病体験は参考にはならないであろうし、病院や医師に対する想いも今となっては特に目新しい情報ではなかろうからとお断りをしたが、がん罹患後に長期生存して、エネルギッシュに活動をしている人たちに取材をお願いしていますから、と二社から揃って言われた。
がんは今、罹患後も生きていかれる人が多くなって慢性疾患ととらえられるようにもなっている。命そのものを長さではかるのではなく質でとらえる生き方にも目が向けられるようになり、がん患者であっても充実して生きる必要性が生じてきたゆえに、私のところに同じような時期に同じような意図で雑誌社から取材依頼があったのだろうと思う。がんを体験しながらも頑張って今を生きている私の状況が、たった今、がんになったばかりの方に少しばかりの勇気の元になるのであれば、と取材をお受けした。

取材をされた時にもお話をしたが、私には生涯忘れられない大好きなDrがいる。苗字をもじって、私はひそかに「イブ」との愛称をつけていた。
私はがんに至るまでに病名が二転三転した。手術時の所見も間違われて、細胞診の結果でやっと悪性リンパ腫と決定した。手術をした病院から抗がん剤治療のための病院へと移動もせねばならず、ガラス板に挟まれたがん細胞標本を私自身が持って、気持ちうなだれたままに転院をした。到着した病院のカンファレンス室で私は女医のイブに出会った。私から病理標本を受け取ったイブはすぐにそれをどこかに差し回した。病歴について基本的なやり取りをしている間にそれの返事は来た。「そうなのね。はい解かりました」、イブは室内の受話器を置くと私にすぐに向き直ってはっきりと言った。「悪性リンパ腫に間違いないそうです」。
そんなことはもう解かっている、と私は言おうとしたが黙った。それよりも悪性リンパ腫がどのような経過をたどるものなのか、私の命はあとどれくらいあるのかが聞きたかった。
「悪性リンパ腫について私はまだ何も説明をうかがっていませんのでお知らせください」とイブに問いかけた。「病気については詳しくは教えません。教えれば患者は悪いことばかりを頭に入れて、それは治療の邪魔になります」
「それでは、末期とかのステージだけでも教えてください」「そんなものはありません」。取り付く島もない返事だった。私は「がんが頭から離れないから教えて欲しいのです」と食い下がった。するとイブはこう言った。「がんなんだから頭に入れておきなさい」。
がんでうなだれている患者にいくつものパンチ。化粧っけのない小柄な女医さんの横顔があった。がんなんだから頭で認識しなさいということか、と私はぼんやり思った。

この気難しいイブに看護婦さんたちも恐れているような様子があった。事実、何人もの患者がイブの毒舌に泣かされたという伝説も残っていた。けれども病棟で過ごすうちに、患者を切って捨てるように冷たく扱いながらも、がんを抱えて生きていくための本当の強さを患者に植えつけようとしているイブの気持ちを私は感じ取ることができた。
入院中に私が喉に硬いしこりを見つけて、再発かとおののいてイブに病室に来てもらったときもそうだった。イブはにこりともせずに喉をゴリゴリと探っていたが、一言「ホネ!」と言い捨てて病室を出ていこうとして振り向きざまにさらにこう言った。「あなたのような人をシンショウボウダイと言います。どうあがいても、生きるものは生きるし、死ぬものは死ぬ!」
同室の人が「ひどい言葉ね」と慰めてくれたが、治療をしても亡くなっていく患者さんが多かった当時のがん病棟の中で、患者と同じようにがんと闘っているDrイブの心の悲しみを、私は一瞬垣間見たような気がした。
治療の途中で一ヶ月ばかりイブが海外に出かける用事があった。治療が滞ることに不安を示した私に、「一ヶ月あいたからとて、再発してしまうような治療を私はしておりません」怒ったように言い切ったDrイブ。信頼感が増した。

抗がん剤治療が終了して数ヶ月後、私はイブに言われた。「経過観察をしていましたが数値も良いようですね。私が主治医としての診察は今日が最後です。私は病院を辞めます。後はS医師に頼んであります」。
私は不意に母親に手を振り払われた幼な児のような感覚に陥った。イブに去られる寂しさで胸がいっぱいになって私はボロボロと泣いた。イブは、何を泣いているの、というような顔をしてしばらく私を見ていたが「私の感じでは治ったと思います。頑張って生きていきなさい」と言ってくれた。
再発の不安が生じると「治ったと思います」、とはっきり断言してくれたイブの最後の言葉をいつも反芻した。たとえプラシーボ(擬似)効果であったにしても私の尊敬するDrイブが言ったことだもの、間違いはないと信じた。

『月日は百代にわたって旅を続けて行くものであり、来ては去り去っては来る年々も、また同じように旅人である。……』(「奥の細道―序章・現代訳」日本古典文学全集内・松尾芭蕉集より―岩波書店)。
月日はきわめて長い年月にわたって過ぎていくが、万物の命は脈脈とは続かない。いつか全てのものと別れるときが来る。誰もがこの世を過ぎていく旅人であり、私もまた然りである。行き着く先が全てのものへの別れに続く道であっても、今年もまたひたすらに前を向いて私は歩き続けていきたい。
お正月はがんの治療が無事に終わった月でもあるから、新年のめでたさのほかにイブに貰った命を毎年数えることにしている。今年で12年目になる。
イブという単語には、ヘブライ語で「命」という意味があることをずいぶんと後になって知った。

がんエッセイ10「貧乏一家の記念写真」

一枚の記念写真がある。
桃色の淡い地色の振袖に色とりどりの花があふれんばかりに描かれている。胸高に結んだ薄緑の帯は花菱の模様で、それにふっくらとした鹿の子絞りの帯揚。清楚に合わせられた胸元にはお祝いの金色の半襟がのぞいている。
背もたれのある椅子に浅く腰をかけて、足元にゆったりと振袖を流して娘は座っている。緊張した面持ちの中に成人した誇らしさが少しだけ表れている。
娘の後ろに私と息子が並んで立っている。
私と息子の姿は娘の晴れやかさとは対照的にちょっと笑える。息子は高校三年生で髪形だけは寸分の乱れもなくムースで固めてばっちりと決まっている。しかし、その下からがお粗末。顔のつくりは致し方ないとしても、私がひそかにブラッシングしておいた高校の制服は、前の日に脱ぎっぱなしにしてあったようでシワにまみれている。おまけに、あと三ヶ月で卒業だから我慢をしなさいと履かせておいた革靴は、つま先に小さな穴。その穴から肌色が見えていて、素足なのが良くわかる。
家族と行動を共にするのを嫌がる時期で、写真館の予約の時間が迫ってきても、なかなか支度をしてくれなかった。記念写真だから家族で撮るのよ、と追うようにして連れ出してきたものだから、やや不機嫌な顔をして姉の左後に立っている。

右後には母親である私。これもアタフタとやってきた感じ丸出しだ。一応スーツは着ているもののイヤリングはなし。ネックレスもなし。ブローチなどさらになし。腕時計なし。妙にサッパリとしていてむしろうら寂しい。おまけに写真を撮る段になって、「あら!真珠のネックレスを忘れてきた」と言ってしまったから、息子にコンコンとひじでつつかれて、「忘れてきたっていいけれど、見栄を張っているようだから言わないの」と叱られた。
真珠のネックレス、と言って見栄を張ったわけではない。安物だけれども一応持っている。写真を撮る予約時間に雨が降りだして、写真館に歩いていくのは無理で、貸衣装だから汚してもいけないから、と表通りまで出てタクシーをつかまえてくることになったのだ。私一人、あわててあたふたとして、娘の長い振袖を介添人よろしく後ろから持ち上げて、やっとタクシーに乗り込んだのだ。最後に身につけようとした真珠のネックレスを鏡台の上に忘れた。

後日、出来上がった写真を三人でじーと見て、おかしさがこみ上げてきた。
まず息子が言った。
「ハハハハ、貧乏一家の記念写真みたいだ。ハハハハ、姉ちゃん一人きれいだけど、俺と母さんはみすぼらしい」
「ほんとだ、お母さんは何も飾り物がなくて寒そうに見えるね。ねぇ見て見て、あんたの服はシワくちゃで、この靴の穴は何!」、と姉。
「せっかくの成人式の記念写真なのにね」
と私も言いつつ、本当に貧乏一家丸出しのような記念写真に、三人で涙が出るほど笑ってしまった。……けれど、本当のことを言えば私の涙は少しの嬉しさが混ざったものだった。

せめて上の娘が成人式を迎える日までは生きていたい。切実にそう思いながらの入院だった。
病室の窓を大きな雲や小さな雲が行き過ぎた。私は、次に大きな雲が来たら、このがん病棟を出ていくことができる、と賭けた。そんなときに限って小さな雲がたて続けにやってくる。私は大きな雲がやってくるまで執拗に賭けをやり直した。面会時間が近づくと、一番初めにやってくる人が男の人だったら私はがんに勝つことができると決め、運良くそうなった日には、がんと闘っていこうと心を奮い立たせた。
私は死ぬわけにはいかなかった。子どもたちはすでに父親と死別をしていて頼みの保護者は私一人。私はただひたすらに、せめて上の娘が成人式を迎えて世の中に出て行くまでは見届けさせて欲しい、と願った。
―――***―――
おかげさまで夢にまで見た娘の成人式を迎えることができた。
貧乏一家と言われようとも、我が家にとってはとても輝かしい記念写真も撮れた。

ありがたいことであるが、人間は仕様のないものなのか、命永らえた母は今、ちょっと欲を張っている。子どもたちが20代の後半に入ってきたので私は今年の初めに主婦業卒業宣言をした。大人ばかりの家族の共同生活であるのだから、できる範囲での家事分担を図るようにした。引き続いて今年の年末には、子育て卒業宣言もして、晴れて自由の身になって青春よ再び(たとえくたびれた青春でも)、ともくろんでいたのだが、どうやらこちらのほう上手く行かないような雲行きである。息子は社会人になっているがもう一度専門学校に行って学びたいことが出来たそうで、来春からまた学生に戻るからよろしくと先手を打たれて頭を下げられた。娘のほうは降るような縁談……もなくパラサイトシングルスをしている。
貧乏一家の記念写真の頃の必死さに比べれば、三人で仲良く笑い合う日々幸せの今に感謝はしているが、成人式の写真がセピア色にならない前にどこかで子育て卒業宣言をしなければならない。
私の心中は複雑。

がんエッセイ9 「赤色拒否」

悪性リンパ腫の治療に「CHOP療法」というものがある。アドリアマイシンを始めとする多剤を静脈に注入する。体内に注入された薬剤は、正常細胞より速い分裂の特質をもっているがん細胞を目がけて攻撃していく。しかし、体内で早い分裂をしているのはなにもがん細胞ばかりではない。特に毛、爪、血液、消化管内の細胞の分裂は速いので、それらもがん細胞と同じものとみなされて攻撃を受けてしまう。
毛の細胞が攻撃を受けるから体毛が抜け落ちる。頭髪のみならず、まつげも眉毛もきれいにサッパリと抜ける。爪の成長が妨げられるからひびが入る。血液内の細胞が攻撃を受けて白血球数が減少する。それによって抵抗力が落ちるからやり場のない倦怠感が発生する。粘膜細胞が攻撃されて口内炎ができる。消化管である胃の粘膜は特にやられるから、強烈な吐き気におそわれる。
これら一連のきつい副作用を伴うのを承知の上で、本体を死なせないまでの、ぎりぎりラインに踏み込んで行われるのが抗がん剤治療である。私はその「CHOP療法」を月に一回の割りで一年間受けた。薬剤はアセロラドリンクのような赤い色をしていた。

入院をしていたのは血液内科であった。外科の先生が私のベッドにやってきて、治療のために必要であるからと鎖骨の下にある静脈に注射針を埋め込む小さな手術をしていった。
主治医がやってきて、「手についたら大変なことになるから気をつけなさい」と看護師に注意を与えながら、手術で埋め込まれた中心静脈につながっているカテーテルのT字形のつまみを開けた。そして手に持っていた注射器から赤い色の液体を私に入れた。
がんの告知でどん底に落ちていた私は、自分の体をもう一枚の皮が覆っているような、あるいはすでに死んでしまった自分を引きずっているような感覚の中で、私の体に注入されていく赤い毒を見ていた。30分後に猛烈な吐き気が来た。

がん病棟の中ではいつも誰かが何かと綱引きをしていた。
その夜は、血尿の袋をぶら下げていた若い娘さんが、ナースセンターの前の病室に移るのは嫌だと大声で泣いていた。ナースセンターの前の病室に移って、帰ってきた人がいないことは、入院患者ならだれでも知っていたから、無理もなかった。ぬいぐるみで飾り立てたベッドが半分起こしてあった。高価なマスクメロンの大きなカットが手付かずにあり、母親がその前でうつむいていた。
私もその夜は、吐き気が幾度も襲ってきて、その絶え間なさに病室に戻ることができず、一晩中トイレの中にいた。トイレの中では、抗がん剤治療を受けた患者たちの小水が大きなビーカーに溜め込まれて棚の上に整列させられていた。夜の蛍光灯にそれぞれがそれぞれのがんの色を出して怪しい光を放っていた。私の名前を書いたビンもあった。私の小水は木苺のような赤い色だった。
食べられないから吐くものもないのに、吐き気がこみ上げて止まらない。がんを抱えて自分はどうしてこの病棟に迷い込んできたのか、世の中にたくさんいる幸せな人々は、どうして幸せなのか。吐き気と共に理不尽さがこみ上げてくる。自分の小水のビンを割ったらここから脱出できるかもしれない。トイレのタイルに座り込んで、私は小水のビンを眺めながら気持ちの中で怒りの手を振り上げていた。
何度となく怒りの手を振り上げても、その手をおろす場は病院内には無く、ベッドに伏して、毒が体から流れ去っていくのを待つしかなかった。いくらか元気になると次の治療月がやって来た。また真っ赤な液体が体に入っていく。そしてとめどなく吐く。マニキュアの除光液(アセトン)を一瓶まるごと飲み干したあげくに吐き続けるかのような、その嫌な感触。

何者かとした命獲得の綱引きにはとりあえず勝つことができた。
治療は終了したものの、心の中に刷り込まれた赤色イコール吐き気の図式からは逃げられず、アセロラドリンク、トマトジュースを見るだけで身震いがきた。
他人が塗っている赤いマニキュアを見ただけでも、病院で死と向き合った苦悩や、吐き気で七転八倒した姿がフラッシュバックされて、私はそのたびに首を振ってその影を振り落とさなければならなかった。まして、自分からマニキュアを塗るなんてとんでもないことであった。スーパーマーケットで売られているペットボトルの人参ジュースにすら近づけなかった。「赤色拒否」と私は名づけた。

あんなにも身体総動員で拒んだ赤色だったのに、がん以後5.6年が経過したある日、いつの間にかなんとなく平気になっている自分に気がついた。薄皮をはぐようにとでもいうのか、再発の不安がいくらかなくなった時期にきたのか、赤色を正面から見られるようになってきたのである。木苺のような色をしたゼリーも、私の前でも他人が食べる分には平気になった。やがてトマトジュースやアセロラドリンクを少し手に取れるようになった。赤いスカートも人参ジュースも徐々に大丈夫になった。ここ一二年はマニキュアも塗れるようになった。
それにしても、人の心は何と複雑にできているのだろうか。しなやかさと強靭さと、あっけないほどの弱さと何事にも立ち向かえる強さと、柔軟さとこだわりと……それらは相容れないはずなのに、しっかりとあわせもつことができている。
死んだほうが楽だと思えるほどの過酷さを体験しても、いつかは自分らしさを取り戻すことができるのだ。人間はなかなかにしてたいしたものである。だから、悲観する出来事に遭遇しても、あわてて死んだりしてはいけない。

がんエッセイ8 「100円玉の悲しさ」

私の手元に、“くすりと社会を考える本”と副題のついた『Capsule』(日本製薬工業協会広報委員会発行)という冊子がある。
その裏表紙に白いひげをたっぷり生やしたドイツ病理学者、ウィルヒョーの写真が掲載されている。写真の下には1800年代に、彼が細胞病理学を打ち立て、細胞が生命の基本の単位であることを証明し、あらゆる病理現象は生理の担い手としての細胞の変化に帰着すると説いた、とある。

1992年1月、一つの細胞が異常増殖を始めていると告知された。異常増殖細胞が血流に乗れば体内のあらゆるところに着地の可能性があり、着地した細胞はそこからまた新たな増殖を続けるという。それがその固体の命そのものを食いつぶしていくことになると説明を受けた。
死んでしまう前に私は緊急入院をさせられて異常増殖細胞の塊を開腹手術で除去してもらい、さらにその後、ミクロ(1ミリの100分の一)レベルの転移をカバーするために、化学療法を一年間に渡って10クール施された。そして経過観察の札を首にかけられて、病院から出された。
私はがん患者である。現代医療の定義では、がんに完治はない。がんに罹患したあと運良く健康状態に戻ったとしても、安定した状態が固定して続く『寛解』という概念に過ぎず、それが自分の寿命まで続けばいいというだけのことである。
再発という爆弾を抱え持っているが、何に用心したらいいのか解からないのが現状である。

がん病棟に入院していた時、乳がんが肺転移をしてさらに心臓の膜にも水がたまっているというMさんがいた。病院内の情報に詳しく、同室の患者さんをそっと指差して、あの人はもう駄目だと思うわ、とか、あの色の薬はあのがんには効かないはずよ、とはばからずに言う人で、Mさんは知りたくもない病気の情報をくれる怖い人と言われていた。
がん病棟は水槽の澱の中にあるようだった。同室の人たちは再発の人ばかりで、天井から下げた紐にもう動かなくなってしまった両足をつるして、それを自分で引っ張って起き上がっている人がいた。その紐を引っ張れるかどうかが、一日を生きて明日につなげる証になるという。がんばったその人は亡くなり、旦那さんが廊下で大声で泣きわめいていた。がんになって初めて見た死だった
どうもがいても水面には出られそうにないこの悲しい病室に、どうして自分は迷い込んでこなければいけなかったのか、病棟は死の色に満ちていて、私は恐怖に近い気持ちでいた。その私にMさんが言った「私はこの病院に長くいるから、あなたにとっていいことを教えてあげる。あなたの主治医は絶対に治る患者しか持たないから、患者は誰も死んでいないわ。大丈夫。あなたは家に帰れる」。彼女の黒目がねっとりと私をはずさずにいた。
私は有難うと言った。
苦しい入院生活だったが、彼女の予測どおり無事に治療を終了して私は退院をした。彼女は素人の私でも分かるような、肩を大きく上げ下げする息をして、太陽の光が通り抜けそうに透き通った薄い頬で私を見送ってくれた。
退院をした夜に彼女から電話があった。「自宅はどお? 畳はいいでしょ。いいなぁ退院できて。私も退院をしようと思うの。心臓にたまっている水を抜かせて欲しいと医師が言うから、治療成績向上のためのデーターに貢献を済ませてね、酸素ボンベ付きで明日家に帰るの。家には高校生の娘が一人で留守番をしているのよ。再発再発で、もういや。今ね、持っているお金を全部窓から捨てたの。10円玉や100円玉、全部投げ飛ばしたら、遠くでチャリンチャリンって音がしたわ」。それからしばらくして彼女は亡くなった。

ウィルヒョーが細胞病理学を打ち立ててからら200年。人間は約60兆個の細胞から成り立っていることが分かった。細胞には核がありその中の染色体には長いひも状の『DNA』が存在している。そのDNAの中で必要なたんぱく質の合成のための情報を担っている部分を『遺伝子』と呼ぶという。
病理が遺伝子レベルで究明できるようになった今、現実に転移性乳がんについてはHER2過剰出現タイプにハーセプチンガ有効であるとして、すでに投与も始まっている。近い将来、個人のもつ遺伝子を調べて、予測できる病気の予防を可能にする時代が来るかもしれない。反面、知らないでも済むことまでが分かるようになり、価値観が変化して人間の質も変わってしまうかもしれない。遺伝子工学が発達していったら、弱者をあるがままに受け入れて愛する気持ちは残っていくだろうか。病気のときの患者の悲しい心や、どうしようもない苛立ちを、包み込んで受け止めてあげなければいけない人間的な優しさは残っていくだろうか。
1月が終わると、がんから丸11年が過ぎたことになる。遠い昔のことであるような気もするが、昨日の事のような気もする。
去って行った病友を時々思い出す。

がんエッセイ7 「荷物」

「生きがい療法」とは、ごく普通の人々が、ガンや難病になった場合、その不安、ストレス、死の恐怖などに上手に対処し、生き甲斐をもって生きるための心理学習プログラムである。精神疾患を治療するための森田正馬が築き上げた療法を元とする。

がんを罹患して一年後(今から10年前)、例えようもない虚脱感を引き連れて、深い穴の淵に立っていた時期があった。
予定されていた抗がん剤治療が無事に終了して、ともかく命をつなぐことのできた状態ではあったが、入院中にたくさんの死を垣間見たためか、精神的にはボロボロであった。今、自分が病院の外という安全圏に置かれているにもかかわらず、その健康社会のあっけらかんとした日常があまりにもまぶしすぎて、心がついていかれない状態であった。
再発の恐怖も私の背中にぴったりと張り付いていた。
どのように努力をしても、きっとそれはやってくるだろう。再びの辛い治療。そして私は死ぬだろう。
どうせ私の人生に幸せはないのだ。私の幸せは積み上げるたびに崩れてきたではないか。いろいろあって、それでも頑張ってきた。生活がそれなりに安定して、今後なんとか働き続けていけば、子供を大学にまで行かせることができるぞ、と腕まくりをしたその瞬間に、神様が私の背中をトントンとたたかれた。そしてくだされものをした。がんだった。あまりにもの仕打ち、と私は思った。
「背負えるからくださったのだ」、と人は安易に言う。背負わされた人は、そうでも思わなければ生きていかれないから、そのように無理やりに思う。けれども重い荷物なんて誰が好んで背負おうか。
私は暗い沼の淵をぐるぐると回りながら、そう思っていた。

白い紙を2枚渡された。
「この部屋の中を観察して何か面白いことを見つけてください。自分が座っているところから見える外の景色でもいいですよ。面白いことですよ。探してみてください」
人々はざわめいて、顔を天井や窓の外に向けたりした。私は、そんなことが何になるのだろうかと思った。……面白いことなんか何もない。こんな狭い部屋とそこから見える窓の外のわずかな空間におもしろいことなんかあるわけがない。
「隣の人が面白い顔だというのでもいいんですか」
「いいですよ。でも理由を書いてくださいね。鼻毛が一本だけ伸びているとか、それが笑えるという箇所を書いてくださいね」
何も面白いことなんかないのに、と思いながら私も皆と一緒になってキョロキョロとした。天井のクロス張りがずれて、四角形のつながりが一部だけ台形になっていた。台形が一つだけ仲間はずれにされているようで、何か親しみがもてた。
天井から吊り下げられた電球の紐が長すぎたのだろうか、何重にも束ねられたそれは結ばれていて、それが握り拳の形にみえることを発見した。電球と傘が、天井から下がる紐に手を出して必死につかまっている形に見えて、なんとなくおかしかった。

「もう一枚の紙の真ん中には自分の名前を書いて、その周囲に知っている限りの人の名前を書いていきましょう。それらの方々を自分の名前と線で結んで、自分の思っている関係の太さで表してみましょう」
「犬や猫でもいいんですか」
「いいですよ。ゴキブリに名前をつけて家族の一員としている人はゴキ子の名前でもいいですよ」
先生が笑って答えて、参加者の皆も笑った。
白い紙の上に私は思いつくままに名前を書いていった。親兄弟や縁戚や自分の子供。それに飼い猫。学生時代の友人。バドミントンクラブの部員やコーチたち。子供の中学生時代のPTAグループや町会のお友達。仕事仲間……友人たちの名前がいっぱいに連らなって、白い紙からあふれそうになった。
「書けましたか?では何人かの方に発表してもらいましょうか。はじめの紙は面白探しです。このようになんでもない部屋に座っていても探せば面白いことはあるものですよね。探しましょう。面白いことを探して、たとえ30秒でも笑うことができたら免疫力が向上します。その分、がんのやつはへこたれます。
2枚目に書き出してもらったお名前は、今までの自分とこれからの自分を支えてくださる大切な方々です。皆で一緒に手をつないで生きているのですよ。大事に生きていきましょうね」
貴女はお友達の数がすごいですね、と先生から誉められた。
がん患者たちが集まる患者会で、がんとの共生を図りながら、日々明るく生きていくための訓練をする「生きがい療法」の講習会に参加した日の出来事だった。がん以後にがん以外のものに目が向けられた日。暗い沼の淵からほんの数ミリだけれども、私は前に出た。

A4の紙面いっぱいにあふれて、私を支えてくださっている人々の群れ。その時の用紙を私は今でも時々取り出して見る。この人々の群れの中に戻りたい一心で、笑いを自らに義務付けて、気持ちが明るく保てるように努力をした。あれから11年、努力の甲斐あってか、私は人一倍よく笑うおばさんになった。この年で箸が転げても笑えるとはおかしな人だといわれて、私は奥歯まで見える、のけぞり笑いを反省する(-_-;)が、すぐに忘れる。クヨクヨはがんには大敵だからである。
友人の数もおかげさまで増え続けて、当時の倍になった。つながせて戴いた手は、もったいなくて、もったいなくて、離せない。生きていることも嬉しくってしょうがない。

一夜に千里をかけられるほどの脚力も、持ち場がいやだからと、どこかにワープできるほどの念力も人は持ち合わせていない。結局は自分に与えられた場で、与えられた荷物や拾った荷物を、背中や両手に持ち合わせて、歩いていくのだろう。それがすなわち生きていくことなのだろう。
背中に乗っているはずのがんのやつを、私は多少なりとも上手に運べるようになったのだろうか、時として背中が軽いことがある。

がんエッセイ6 「ヤクルト」

夏になるとやたら多くなる怪奇現象。トンネルの中、ほらあそこに霊魂が、と指差す人。示された先にぼんやりとした白い影……。

CT室から返されてきた肺の映像の中に、直径2センチほどの白抜きの影があった。「再発ですか」医師の言葉を待てずに私は聞いた。「の可能性もあるね」医師は再発という言葉の重さを患者に感じさせまいとしてか、自身ではその言葉を使わずに「の可能性」と答えたが、その短い言葉で充分の衝撃がきた。
がん患者としての私は、寛解の目途である5年目を、ちょうど通り過ぎていこうとしていた辺りで、もしかしたら何事もなく普通に生きて行けるかもしれないと思っている頃だった。
前触れもなくやってきた再発の兆候、心臓をいきなり冷たい手でつかまれたような感覚。足先から悪寒が上がってきた。
「先生、これは二週間前の撮影ですよね。もう一度CTを撮ってきます」再発は絶対にいやだった。祈るような気持ちで撮ってきたCTには先回と全く同じ形の影が映っていた。
「検査というのは気管支鏡を飲み込むのですか?」患者としての知識もだいぶ増えていた私は、その反面多くのマイナーな部分も学習済みで、呼吸の通り道である気道を内視鏡が通っていく息苦しさを想像すると胸がふさがった。医師は「影の形が少し違うようなのでもしかしたらなんでもないが、そうかと言って手遅れになるようなことになっても困るので、内視鏡検査だけはしたほうがいいと思う。どうしますか?」と言う。
患者には決定権もあり、選択肢もあるのだから返事をしなさい、と言われても、それに応えられるだけの医学知識はなく、しかも追い詰められたような、切羽詰った“再発”の不安だけが気持ちの中を駆け巡った。検査をする手続きをした。
夜中に何度も眼が覚めた。狭い気道を大きな気管支鏡が通り抜けようとする。もがきながら飛び起きる。眠れぬまま、影があると思われる場所に私はじっと手を当てていた。
再発をすればがん以後に組み立ててきた生活がまたもや崩れる。肺切除をするとどんな生活になるのか検討もつかず不安であった。この影が消えればいい、私は検査の日まで暇さえあれば祈るように胸に手を当てていた。
勇気を持ってやった気管支鏡検査では肺の影に到達することができず、入院をして背中から穿刺をして直接その影の中身を採ってくる、いわゆる生検をすることになった。
検査のためとは言え、再びがん病棟に戻った私は気落ちした中にいた。私は軽い麻酔を打ったまCT室に入った。CTの機械がドォーンドォーンと唸っている中をうつ伏せで何度か行きつ戻りつした。どの医師が背中に針を刺すのだろうか、私はうつ伏せのまま目をつむっていた。すると機械の音が突然に止んだ。小さなドアが開けられて医師が出てきた。「影が消えています。病室に帰ってください」
狐につままれたような気持ちだった。

『がん患者が共に生きるガイド』を出版させてもらった2001年の春、全国からたくさんのお手紙を戴いた。その中のお一人と手紙のやり取りをさせてもらっているが、その方も不思議体験をなさっている。
お話によると胆石の激痛にさらされた後、癒しの音楽を流しながら谷川をさらさらと水が流れるイメージを頭に描き、胆石のあるところにいつも手を置いていた……と。胆石はやがて消えたそうである。
私の義兄も不思議な体験をしている。義兄は膀胱がんだった。かなりしつこく再発するので、半年に一度くらいの入院をして尿道の壁にできた腫瘍をそぎ落とす治療をしていた。罹患して10年目、「この治療がもう最後です。尿道の壁がだいぶ薄くなっていますのでもう持ちません。次に再発をしたら人工膀胱を考えています」、と医師から告げられた。病室に戻って、何を考える気にもなれずに義兄はテレビをつけた。画像はヤクルト菌の話だった。この菌がもしかしたら膀胱がんに効く可能性があるかもしれないという内容だった。
それから義兄はヤクルトを朝晩のみ続けた。半年後の定期健診では、あれほどしつっこく尿道の壁に出ていた腫瘍は見当たらず、義兄は人工膀胱になるのを免れたばかりか、完治地点にジャンプする奇跡のような結末を迎えたのだった。何がどうなったのか、胆石と膀胱がんと私の肺の陰。摩訶不思議な出来事。

不思議事を科学で証明できる知恵が現時点で無い場合は不可思議事として存在してしまうが、その解明に科学が追いついたあかつきには証明されることもあるわけで、夏の夜の怪奇現象はともかくとして、不思議事を一笑に付してしまうことはできない。余命何ヶ月といわれても生き返ってきた人は沢山いるし、自然治癒力や免疫力の向上も方法論において“かもしれない”部分がまだあるから、裏返せば何が幸いして生還してくるかを“賭ける”手がまだ多く残されていると言える。
何があってもとにかく生きていくことが先決。生きてさえいればどうにかなる。それでも身に余る悲しさに出会ったら遠慮なく周りを巻きこんだらいい、と私はがんの体験からそう思っている。周りの人は、まきこまれてその人を支えてあげよう。そうしてこそお互いに「人」を名乗っていることになるノデハナカロウカ。

がんエッセイ5 「赤門」

笑われそうな気がするから人に話したことはないが、私は昔から辞書が好きである。ちょっと休憩したいときなどは辞書を手にして寝っころがる。「あ」なら「あ」から始まる言葉が淡々と続いているのを読んでいくと心地よい。それほどの辞書好きなら賢いのだろうと思われそうだが、辞書を読むことは私にとって活字中毒の延長線上にあるようなもので、生き方に於いては辞書非活用である。辞書好きだなんて、面目ないから人には言えない。

手元にある集英社の国語辞典で「赤門」を引くと「東京大学の西南隅にある朱塗りの通用門。もと加賀藩前田家上屋敷の御守殿門。転じて、東京大学の通称」とある。
徳川幕府には、大名を統制させるための参勤交代制度が設けられていたから、諸藩の大名は江戸市中に屋敷を構えて妻子を住まわせ、藩主は郷里と江戸とを一年交代で異動しなければならなかった。三位以上の大名でその子息が徳川家の姫君を妻に迎えた場合は、花嫁のために赤い漆を塗った門を建てるという慣習があった。その門の名称を御守殿門(ごしゅでんもん)という。東大の通用門となっている御守殿門は、1827年、加賀藩主・前田齋泰に嫁いだ11代将軍徳川家齋の息女溶姫のために建てられたもので、この地が東京大学になった時から、正門の黒門に対して赤門と呼ばれるようになった。

がんを発病して手術と化学療法治療の体験を持っている。
その話をしてくださいと時々依頼を受ける。依頼先は医療機関で、看護学校の生徒さんへの卒業記念講演だったり、患者の心を知るという題で医師や看護師さんたちの研修会だったりする。
医学の力を総結集して病気を治すことは第一義だが、治癒率の向上と共に病を引き連れて生きていかなければならない時間も長くなっている今、心のフォローにもやっと目が向けられるようになってきた感がある。それは患者体験をした者から言えば、喜ばしい事である。だから私は依頼を受けたら全力で丁寧にそのときの気持ちを掘り起こしてお伝えする。
がんに罹患した経過を話していけば、気持ちがその当時に戻ってしまうから辛い思いもするが、自分の気持ちをさかのぼって確認していくことで、今の気持ちを整理できるというメリットもある。一つ一つ講演をこなしながら、がんからの自立や自律を地固めしてきた気がする。

「少数のゼミですが、医学部の学生たちに体験を話していただけませんか。現行の医学カリキュラムの中では『患者の気持』の部分に使う時間は驚くほどに少ないままです。自助グループや当事者同士の支えあいについての授業は皆無と言っていいでしょう。医者になる前に一学生、一人の若者としてお話を聞くことは彼等にとって非常に得がたい経験になるはずです」、と東大の先生からメールが入って、梅雨に入って細い雨の降る6月に、赤門の前で待ち合わせることになったのだった。
御守殿門の朱塗りの漆は、ところどころ色が浅くなっているが、時代の重みを充分に保っていて東大の威厳にふさわしい貫禄であった。近寄ることもまぶしい東大である。私はかなり緊張をしていた。小柄なM先生が大きなイチョウ並木の向こうから現れて、医学部3号館に学生たちが待っていますから、と案内をしてくださった。途中の運動場には東大と書いたユニフォームを着たサッカー部員が雨と泥にまみれて走り回っていた。屈託の無い笑顔。応援の女の子たちの一団もごく普通の若い女性の身なりで、学業一筋と昔風に思っていた私は、どこにでもあるような大学風景に少し安心した。
教室に待っていた6名の医学生たちから自己紹介書を貰った。ドラムをやってボウイを聴いて、一浪したり、他大医学部の受験の失敗などの挫折を味わったり、また、宗教勧誘やキャッチセールも潜り抜けてのエピソードや、自分が嫌いで長らく自己嫌悪に陥っていたなどなど、各人の落ちこぼれ的経験もたくさんつづられていて、お医者さんの卵としても、人間味があることにほっとした。
学生さんの将来は小児科医やターミナルケアーと希望はまちまちだったから、私のがん体験話がどの程度お役に立ったのかは分からないが、それでも、医療システムの中で感じた患者と医師の目線のづれ、それからがんに向かい合ってどのようにそれを受け入れて行ったかのプロセスを話していったときは、眉を曇らせるようにして聞き入ってもらった。

がんになってから、たくさんの人に出会えて、ありがたいと思っている。東大の学生さんの自己紹介書は大切にファイルしてある。私がもしも元気で九十代まで突入して(欲深いこと)、もしも餅でも喉に詰まらせて救急車で運ばれた先に、この学生さんたちがバリバリの現場の医師として働いていたら、いいなぁと思う。そうしたら、あのときの私です、とピースサインくらいは出してみたいと思っている。
余談だけれども、「我輩の辞書に不可能の文字は無い」と言った英雄ナポレオンは、そうは言っても、可能にするための苦悩で胃を痛めたのではないかと思う。胃がんで亡くなったと物の本にあった。

がんエッセイ4 「さくらの樹の下で」

色は匂えど散りぬるを/わが世誰ぞ常ならむ/有為の奥山今日越えて/浅き夢見し/酔いもせず

50音順というと今では『あいうえお』が主流になっているが、ほんの少し前の日本には『いろは』で始まる順番があった。
戦後の国語改革でゑ(え)や、ゐ(い)が使えなくなってから『いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす(ん)」という平仮名での表し方を目にする機会はなくなったが、全ての音を重複することなく詠み込んだこの歌は、かなを練習する手習いにとどまらず深い意味あいがある。

日の光がやや強くなって、日足も心持ち延びてくると、南の方からさくら便りが届き始める。開花宣言から三分咲き、5分咲きとニュースが流れてくるが、満開の頃には決まって春雷を伴うような春の嵐が強風や雨をもたらして、さくらを散り急がせる。あっという間のさくらの命に、過ぎ行くものへの愛おしさを想いながら、人々はせかされるようにさくらの樹の下に立つことになる。

髪の毛が全部抜けて体重が50kgを切っていた。スポーツでしっかり鍛えられていた太ももの肉は落ち、化学療法の副作用で爪には縦皺がはいっていた。毎夜、消灯後の病室のベッドで、しびれの残る右手と左手を目の前にかざして、幸せの数と不幸の数を指折っていた。幸せの数がいつでも足りなかった。私は幸せと思える出来事が多くなるまで、どんなちいさなことでも探し出して数えた。もし、死んでいくことが避けられないのであれば、せめて幸せな人生であったと思いたかった。
土曜日の午後のこと。病棟には外泊許可が出なかった患者が残っていた。それはまた、病気の重さをも意味していたから、皆それぞれのベッドで静かに休んでいた。7階の窓から見える町はすっかり春めいて、そこここにさくらの淡い花霞が見えていたが、外のさくらと内の病、ガラス窓一枚だけではない大きな隔たりに、誰もがさくらを忘れたようにしていた。
廊下の向こうから、看護婦さんたちが病室を一つ一つ渡ってくる気配がした。「お花見に行きますよ!」という声も聞こえてきた。
私は治療後であったら、白血球数が下がっていて、感染に気をつけねばならない状態であった。
「暖かい午後だから行きましょ!ちょっとだから、厚着してね、さっと行って、さっと帰ってきましょう。お花見!お花見!」
ナースセンターや病室が華やいだ雰囲気になった。
患者さんを寝かせたままの大きなベッドが数台、病室から出てきた。点滴を持ってガウンを着て、ひざ掛けを幾重にもまき付けた患者さんを乗せた車椅子も、数台並んだ。看護婦さんがそれぞれを押すために後ろについていた。感染を防ぐために大きなマスクをして目だけを出して、看護婦さんに支えられて……、そんな一団が病院の中庭にあるさくらの樹の下に集まった。
さくらの樹はとても大きかった。
花は、白にほんのりと淡く紅を浴びせたような薄桃色で、枝という枝を埋め尽くして揺れていた。重なり合う花びらの奥に見える真っ青な空。春爛漫と咲き誇るさくら。それを必死で見上げる患者たち。見せてあげたいさくら。見ておかなければならないさくら。もしかしたら最後のさくら。
私が死んでも、このさくらはまた来年、きっと何事もなかったように咲くんだろうな……そう思ったとたん、言い知れない寂しさに襲われた。突然の病気の発症。辛い治療。命に限りがあるとは思いもしなかったこれまでの日々。命に限りがあることを突きつけられた病室の、今の、日々。できることなら逃げ出したい。死ぬのは怖い。私はさくらの樹の下で看護婦さんの腕につかまって泣いていた。

春は夫の祥月命日でもある。
私はひざの上にまだ温かい骨壷を抱いていた。虚脱感でいっぱいだった。死ねたら楽になるのだろうか、それだけをずっと思っていた。葬儀場から出てきた車のフロントガラスに、さくらの花がまとわりつくように散り続けていた。夫の死とがん。大変なことをくぐってきた感はあるが、過ぎてきた日々を振り返れば、この二つは私の人生にとって必要なことであったのだ、とこの頃では思える。

『色は匂えど散りぬるを・・・』の『色』は、仏教でいう『色(しき)……形あるもの』のことで、形あるものはいづれこわれるのであるから、物や形に執着せずに生きよ、という意味が含まれている。
がん以後の拾った命。いずれにしても散りぬる命、きわめて淡々と生きようと思ってはいるのだが、修行が足りずに、まだ喜怒哀楽そのままの日常にいる。毎年、さくらの頃に定期健診があって病院の門をくぐる。無事に二重丸をもらえたら、私の一年が始まる。

がんエッセイ3 「不平等だけれど」

『幸』
雪は?天国の?あまりにも?幸福すぎるのに?退屈して?世の中へ? フワフワと?消えに降りてくるのだとさ?フワフワと? フワフワと?雪はバカだなあ      
矢沢 宰 詩集『光る砂漠』より
(童心社・1969年・周郷 博 編)

日の光が明るくなって、いくらか春めいてきた東京地方だけれども、今年の冬は例年より寒く、そして雪の印象がある。
昨年の12月9日に降った雪は都心で三センチの積雪となり、12月の降雪の記録としては11年ぶりであったという。その日、私は友人とランチの約束をしていたから、重ね着をした上にさらにダウンコートを着て、両国の第一ホテルに向かった。
この悪天候に人出もまばらで、でも、そのおかげでゆったりと食事をすることができた。
地上200メートルのホテル最上階から見ると、雪はたくさんの仲間と一緒に、左右に揺らいだり、少しの風に上昇したりまた戻ったり、楽しそうに乱舞をしながら地上に降りてきていた。遠くには新宿の高層ビル群が、灰色の薄いシルエットを見せていた。眼下に流れる隅田川に船の姿は無く、川に寄り添うように走っている高速道路では、観光バスが綿菓子のような雪を載せて、何台か連なって行くのが見えた。国技館の屋根も両国の駅舎も丸く、安田庭園の松も雪釣りの形をとどめながら丸くあって、見ている私の気持ちまでがまろやかになっていくようだった。

あの日も、朝から雪が降っていた。
私の隣のベッドの人は泣きやんだのか布団をかぶって硬い背中を見せていた。婦人科の病室は、子宮筋腫摘出後の人、山のようなおなかを突き出した妊婦さん、出産後の若いお母さん、そして、泣き出してしまった彼女。それに開腹手術前の私との計六名で、今思えば、産む性を持つ女たちの全てのサンプルを詰め合わせたような患者構成になっていた。雪の降ったその日は日曜日で、見舞客の出入りも多く、特に赤ちゃんを産んだ人のところには人が多く寄り集まって、祝福の言葉が飛び交っていた。
子宮筋腫を摘出した60歳前後の人は、ベッドで新聞を読みながら「ああ、ゆっくりできるのもあと少しか」とつぶやいていた。私はがんの疑いがあって不安を抱えていたから、単なる子宮筋腫の彼女の呟きを、心の中で羨ましく思っていた。
「新聞の音がバサバサうるさいです」、とその女の人が言った。それが諍いの始まりだった。30歳半ばかと思えるその人は、入院したときから硬い表情で、入院の理由は見た目には分からなかった。
「新聞くらい読んだっていいでしょ。大きな手術が終わってほっとしているんだから」と子宮筋腫の術後の人は言い返した。
「ここは病室なんだから、皆さん静かにしてください。おめでとうおめでとうって、もうやめてください。子どもが欲しくってもできない人の気持ちにもなってください」。そう言うと彼女は布団に伏して泣きだしてしまった。
子宮筋腫の人は、「あんた、何を自分勝手なことを言ってんの。人にはそれぞれの幸せや不幸の時期があって、金太郎飴切ったみたいに同じ顔で、せぇ~のって暮らしていかれるわけないじゃないのよ。あんたが不幸だっていうなら、それはあんたの問題でしょ。私だって、辛い手術が終わったところで、喜んだ気持ちになったっていいじゃない。ずっと働いてきて、60になってやっと病院のベッドで骨休めのように休んでいるんだよ。それをあんたに咎められなきゃならない筋合いはない。……何があったか知らないけれど、あんただってきっとこの先、幸せを感じられる日がやって来るよ」。
自分の娘を諭すように、新聞をたたんでその人は廊下に出て行った。
「今夜は雪が積もるかもしれませんね」と産み月の人が言った。
静かになった病室。音もなく降っている雪。蛍光灯が白々としていた。

人は無から生まれて、やがて死んで骨になる。その生き死にだけは誰にでも平等であるが、平等なのはそれだけで、人生を渡って行く中身や長さは全くの不平等である。そして多分、喜びのときは短く、悲しみのときは長い。顔に出さないだけである。
人はそれぞれの人生の長さの中で、幸せの時期がそれぞれにずれているからこそ、他人の悩みを受け止めたり、はげまして支えたりすることができる。だから自分が辛い時は、辛くない人に訴えて、その胸を借りて素直に泣けばいい。そして泣かせてもらったことを覚えていて、そのことを誰かに返していけばいい。
不妊に悩んで泣き伏した彼女と、産み終えた感動が交錯してしまうこんな混成病室を作った事は、病院側の落ち度であったかもしれないが、時には、生きているだけで丸儲けだと思うことも必要だと思う。
純粋な詩を500篇以上も残した矢沢宰君は、そのほとんどを病床で過ごして21歳で亡くなった。
今年の冬は、早逝した矢沢宰君を想うことが多い。

がんエッセイ2 「座右の銘」

欲張りな話だけれど、座右の銘が二つある。一つはワット隆子さんの詩の中の一節から頂戴した『失敗は人を決めない。失敗の後が人を決める』。もう一つは亡き父の口癖『逃げれば追ってくる、向かえば乗り越えられる』である。
この座右の銘には、しかし二つとも欠点がある。一つ目は、失敗した後にもしっかり生きていくことを重点に置いているために、失敗を反省する箇所がない。二つ目は、自分で自分を奮い立たせるような強い意思無くしては逆風に向かっていけないので、必然的に鼻息の荒さを必要とする。こんなわけでこの二つの座右の銘を持つ私は、反省を滅多にしない、鼻息の荒いかわいくもない女に出来上がってしまった。

悪性リンパ腫というがん体験をして今年で10年目になる。がんを告知されたあとは、色彩のない世界のどん底に落ちた。どん底から立ち直るには大変な七転八倒であったが、それでも父からもらった座右の銘『逃げれば追ってくる、向かっていけば乗り越えられる』を心にして、『がんは私を決めない。がんの後が私を決める』という呪文を唱えつつ、この10年、なんとか生きてこられた。
昨年、がん体験以後の心模様をまとめて全国出版した。出版後、読者から相談が入るようになった。これはある程度予期していたことであったから、出版社にも、病気に関する真剣な問い合わせがあれば自宅の電話番号を伝えてください、と申し出てあった。出版をした著者責任として、できる限りの御相談には乗りたいと思ってきた。真摯な気持ちであった。

ある日、外出先から帰宅して家の近くまで来たら、私の前を歩いている男性が下げている黒い鞄が目に入った。見覚えのある本が差し込んであった。私の本だった。その男の人は近所の表札を確かめながら歩いていた。出版社からの連絡はなかったが読者が私を訪ねてきたのかもしれなかった。でももしそうでなかったら格好が悪いので私はその男の人の後ろを何気なく歩いて家の前まで来た。男の人が表札を見た。私も仕方なく立ち止まった。男の人が振り返って、アッ柚原さんですね、と言った。新聞で拝見していましたので、と言われた。続けて、御相談があります、と言われたので私は近所の喫茶店に御案内してお話をうかがうことになった。
その人はとても端正な面立ちで、目はまっすぐに私に向かっていた。姿勢もネクタイの趣味も良かった。「父親が白血病です。息子としてどのように接していったらよいのか見当がつかなくて・・・」彼は苦しそうに言った。私はどのような病状かを尋ねた。そしてお父さんが一番何を大切にして療養していらっしゃるのかも尋ねた。何度か会話をやり取りしているうちに、白血病に対する知識がちぐはぐであることを感じた。もう少し深く尋ねようとしたら、「実は父はもう治ったのです。あるもので治ったのです。ですから父が治った実証があるこの水を患者会の皆様に無料で差し上げて、父が治った喜びを他の患者の皆様と分け合いたいのです。患者会のルポを書かれたあかりさんの本を見て、ここに行けば皆さんに差し上げられるのでは、と尋ねてきました」。
彼はかばんの中からオロナミンCのようなビンを出した。『黄金××水』と書いてあった。「買っていらっしたんですか?おいくらでしたの?」「1万2千円でした」「患者さんに差し上げるとなると大変な金額になりますね。ボランティア精神ですか? でも患者会は個々の会員さんのプライバシーが流出しないようにきちんと管理していますから、何か物を売るとかでは簡単には近づけませんよ」真正面から私を外さずにいる彼のきれいな目を見て、惜しいなぁと内心で思いながら、でもピシャリと釘をさした。
代替医療の会社を興こすのでアドバイザーになってほしいとか、何とかの石を販売したいので一筆書いてほしいとか、出版以後は眉唾の話も多く飛び込んでくるが、いづれも無視をしている。しかし尋ねてこられたら逃げようがない。

お父さんが白血病、どうしていいか分からない、白金××水、ボランティア精神、端正な面立ちのきれいな目、・・・大まかは嘘だろうけど、どれか一つは本当だったかもしれないかなと少し心が揺れる。
座右の銘はなんですか?と彼の生き方を聴いてみればよかったかとも思う。そうはいっても『七転び八起きです』なんて言われたら、私の座右の銘では太刀打ちできない。

がんエッセイ1 「浄心寺境内」

チャイムが鳴ったので出てみると、玄関に男の人が立っていた。宗教の勧誘かと一瞬身構えた。あのぅ、と出されたパンフレットは癌保険だった。「癌と告知された時点でまとまった多額の保険金が出るのですが……」目をしょぼしょぼさせて、断わられやすいようなタイプを丸まると私に見せて、彼は小声で言った。子宮筋腫はあったものの他にどこも悪くなかった私は「お使いに出るから」と当然のように断った。彼はあっさり「そうですか」と引き下がった。

スーパーの帰りに浄心寺の脇を通ると、境内の石段に腰掛けてうつむいている彼の姿があった。契約がひとつも取れないようなわびしい姿に見えた。私は無意識に彼に近づいていた。「もう一度うちに来て詳しい説明を……」私の口から言葉が勝手に走り出ていた。
その後の展開は、小説よりも奇なりになった。自分から招いて保険契約をした半年後に、私はがんになったのだ。子宮筋腫とばかり思っていたものが実は癌性の腫瘍で、開腹手術後の精密検査の結果『悪性リンパ腫』と診断された。抗がん剤治療のために病院も二つ替わった。
保険契約後のすぐの癌発見は、告知義務違反にあたるのではないかと社内で私のケースが問題になったそうだが、彼はずいぶんと頑張ってくれたらしい。仕事とはいえ入院中の私に代わって関係書類を調えに飛び回ってもくれた。結果、多額の治療費が無事に下りて私は安心して治療に専念できた。

あれから10年。私は癌と共生できて、彼とはお酒の飲める友人関係になった。わびしそうに見えた彼は、実は控えめな聞き上手の成績優秀なセールスマンであった。彼は浄心寺の境内で、わびしくひ弱そうに石段に座っていたことなどない、と今でも笑って断言する。
浄心寺の境内を通るとき、私は時々思う。あの時、ひ弱に感じたのは、病気を持っていた私の体が出したシグナルだったかもしれない、と。